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「作り手の尊敬できない部分を知ってしまうともうその作品に触れることが難しくなってしまう」

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反応&感想

SNSの時代に入り、これまでになく作者が道徳的に正しくあらねばならない、という圧を感じます。個人的には、すぐれた作品には主人公を食うくらいの悪役が必要であり、そのためにも作者たるものとんでもない悪徳を持ってなくちゃいけないと思ってますが。
作品と人格は別の物だって理解しないと
過去の文豪・偉人なんか目も当てられないんじゃないのかと。
「作品と人格は別の物」なんて詭弁だと思う。他人を傷つけておきながら素知らぬ顔をして、いまだ文化人面をしている西原理恵子や園子温の作品なんて見る気にもならない。創作という「感情」が生み出したものについて、感情を留保して目を向けるなんて不可能。
映画研究とかやってて批評的に見たいなら知らんけど、娯楽として見るのに作り手がヤバいって知ってしまうと楽しめなくなっちゃうって普通にあるんじゃないかな…
社会問題への関心の高まりによってそういう感情を持つ人もいるだろうし、そういう倫理観を《彼らにとって「作品を見ることはそれを賞賛すること」になっている問題もありそう》などという世代論で切り捨てることこそ消費者が社会問題と向き合うことを阻害するものではないか。
これ閲覧=作り手への利益や収益に直結する構造になったから、っていうのもありそう
見るだけで利益が発生するならそれは実質的に応援してる事になっちゃうからなあ 許せない事をした(≒応援したくない)相手にお金落としたくないって思うのは割と普通の感覚だと思うし
賞賛じゃなくて、加担になる、という感覚なのでは?
昔と比べて今は「売れ行きが落ちた商品は即、売場から姿を消す」という動きがより激しくなっていて、創作物もその例外ではないので
 
買うことやビューカウントを増やすことが「投票」に近い類の行為になった気がします。
 
これが“作品を見ることはそれを賞賛すること”という風潮ができた一因かも。
今の時代、好奇心や人間観察的な意図でPVを伸ばすこと自体が、相手に割とダイレクトに糧を与える行為と直結してる面もあると思う。
お触り厳禁はネット社会の鉄則。
批判的に見るのも肯定的に受け入れて見るのも、「コンテンツにお金を払った」時点で100%肯定したことになってしまうわけだから「どう見るか」に意味はないんだよね。お金を払って消費した事実だけが数値として価値化されていくんだから。
見ること=賞賛することになってる問題とあるけど、非道徳的な感覚を持った作り手の作品を単なる娯楽として楽しめなくなるから見ることすら出来ないってことではないかな。
若い人だけの感覚ではないし、誰かを傷付ける可能性のあるメディアって知ってしまった以上、心の底から楽しめなくなる。
> ふと、これも「タイパ志向」の一種なのかなと思ったりしました。
自分を構築するためにそういう作り手の作品を摂取しようとすると非道徳的箇所を自分で洗い出して除去しなくてはならなくて、それなら他を当たろうみたいな。
ほとんど無限に作品がある中から、「何を選んで見ているか」がそのまま自分のアイデンティティになっちゃう(周りからもそう見られる)ようなところがあるのかもなぁと思った。
その割に道徳的におかしいYouTuberの動画とか観て盛り上がってたりするからよくわかんないな。
私は尺度がその時々で変わる物差しを使ってる、と思ってる。この人のこの行動や言動は共感できないけど、作品は良いし好きだと思う時と、作品は好きだけどそれ以上にこの人の持つ思想や言動がどうにも意識から外せないのでムリだと思う時がある。自分という受け手はそれくらい無責任で勝手
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