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国が「助け合い」とか「絆」とか言い出したら要注意なんですよね。

「共助が強調されるとき、公助は後退する」のが社会保障。

国は社会保障費を削減したいと思ったら、
「共助=民間での助け合い」を美化して推進すればいいわけです。
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これに加えて自己責任論を蔓延させれば、市民は主観で『気の毒』な『本当に困っている』(ように見える)人は助けるけど、『そう見えない』人は見殺しに。
見殺しにされた人も自己責任論に侵されて、社会保障利用に罪悪感を覚えて申請できない。
国民は早晩、自滅に向かいます。
引用元
「助け合い」の民営化ですね。
東日本大震災の時にひたすら聞いたなぁ…
「やりがい」を
強調する企業の危なさに
近いものを感じるなあ。

一部の個人が感じるものと
前面にアピールすべきものを
履き違えているパターン
他のことでは政府に批判的なトーンのメディアも近年は「助け合い」「共助」「絆」「ボランティア」を喧伝しているように見える。
こども食堂なんていい例だわ。
災害時にボランティアをやる人は、素晴らしいと思います。しかし政府が、ボランティアや子供食堂を声高に言うと違和感を感じます。本来政府が普通に機能していると両方とも出番はないはず。税金は何の為に取っているのかという話になります。
違いないです。これまで家族内で賄えていた介護や療養などが核家族化が進み、家族の人員が減って、対応できなくなりました。そこを政府が社会保障制度で賄ってきたのですが、財政難につき、削っていく方針。つまり共助や自助路線になってるのが今ですよね…
私の住む街の市長は、あからさまに「自助」を強調してやみません。どうしても、自助・共助であかんかったら、最後に相談にのったろかって呆れる。そんなら、政治家もいらんし、役所も小さくていいし、税金も納めんでええやろ。怖いですな、自己責任の空気と、共助の押し付け。利他的な行為は自発的に。
本当にこれ。家族内でも助け合わなければいけないっていうことを改憲案に入れてるのも恐ろしすぎる☹️
もう一歩進むと、困難な状況でも文句を言わないよう、相互監視させるようになる。
社会の変化に対応して核家族化・個人主義化した庶民には帰る場所がない。それでも自己責任と言われるんだろうな。
共助が推進され始めたのは阪神淡路大震災からな記憶。
あの時、地元の力の助け合いで救われた話が美化された時に、じゃあもっと公助でやれるようにしようじゃなくて、自助、共助が大切だに流れが変わった。マスコミで流れる話でも、ぼうさいくんれんでもそうだったと思う。
だって事実災害直後は公助よりも「自助・共助」の方がよっぽど効果的だというデータや教訓があるもん。
行政が計画通りに進まなかったら、計画を変更するのは当たり前。
私は公助は当てにしないし、むしろ、公助ためのの源泉を生み出す層になりたい。
自助と言いだしたら金がないということですね。
敗戦直後の国家の「公助」が崩壊した中で、
闇市や売買春を管理し、治安維持までをの「共助」を行ったのが、暴力団。
(そのころは暴力団という名称は無かったけど)

「共助」ってのは、ヤバい側面を持つよ。
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