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松崎良美先生に書いていただきました。
「メンヘラ」「コミュ障」を自称する人を時々見かけますが、こうした「メンタルヘルス・スラング」で自称する人ほど、目の前の問題に取り組む力が低いことが研究で示唆された。
その理由を探るという内容です。これはめちゃくちゃ面白い。
メンヘラ、コミュ障を「自称」することの、知られざるリスク


・「メンタルヘルス・スラング」とは何か

コミュ障、メンヘラ、アスペ、プチうつ…聞きなじみがある言葉も、初めて目にした言葉もあるかもしれない。これらはいずれも、厳密な意味での医療用語ではないものの、その出自自体は、メンタルヘルス産業の現場などで用いられてきた言葉だ。

(中略)

以下では、「メンタルヘルス・スラング」が若者の間で実際にどれほど使用されているのか、そして、どれほどの若者が、どのような理由でメンタルヘルス・スラングを用いて自己認識・自己紹介しているのか――つまり、「自称コミュ障」「自称メンヘラ」であるのか――についての調査を紹介する。その上で、コミュ障やメンヘラを自称することが抱える危うさを考えてみたい。

・SOC=「首尾一貫性」とは何か

物事に対するチャレンジングな姿勢。筆者はそれをSense of Coherence(首尾一貫感覚;SOC)と呼ばれる概念を用いて測定している。SOCとは、ホロコーストという悲惨な環境下に置かれながらも、精神的な健康度を保って暮らす女性たちの姿に衝撃を受けたアーロン・アントノフスキー博士によって、1970年代に提唱された概念だ3。

「過酷な経験をしていながらも、精神的な健康を、なぜ保ちつづけることができるのか」という問いは、当時の「疾病発生」の因果理解、つまり「なぜ疾病が発生するのか」という理解に、根本的な問い直しを迫るものでもあった。

すなわち、SOCとは、周囲の資源をうまく利用しながら、問題を把握し、対処可能性を見いだし、そのプロセスに意義を見いだしながら取り組む力とみなすことができる。SOCがストレス対処能力と称されるのも、SOCが以上のように構成されているとみなされたことによる。

・「自称メンヘラ」の落とし穴

では、調査の結果を見ていこう。2016年に実施したメンタルヘルス・スラングの使用とSOCの関連性を測るための量的調査からは、メンタルヘルス・スラングを使って自身を捉えたり、それを自称する経験がある者のSOC平均得点は、対照群と比較して有意に低い、という結果が示された4。

つまり、メンタルヘルス・スラングで自称する者のほうが、事態を把握し、対処可能性を見いだし、そのプロセスに意義を見いだしながら問題に取り組む力が低いという結果だ。さらに、精神的不調経験の影響、現在のストレスの有無の影響を取り除いても、メンタルヘルス・スラングを使って何らかの形で自称している者のSOC得点は対照群よりも低かったのである。

全文はこちら
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「メンヘラを自称するから対処能力が低い」のか「対処能力が低いからメンヘラを自称する」のかはわからないが、両者は悪循環してる可能性が高い。

前者は、メンタルヘルス・スラングを使うことでその場しのぎの説明ができてしまい、問題解決に至りにくくなるという理屈が立つ。
本文にもある通り「メンタルヘルス・スラングを使うことで楽になる」人もいるので繊細に議論する必要があるけど、メンタルヘルス・スラングの使用がアディクション的な側面を持つという指摘にも、なるほどと思う。
強い言葉の使用は、嗜癖になるのかもしれない。

反応・感想

ずっと思ってた。
メンヘラなどのスラング用いること、自称することの落とし穴。面白かったというか、身につまされるというか。
「メンヘラ」という言葉が死ぬ程嫌いです。
精神障害者を侮辱する言葉であるだけでなく、精神障害を矮小化するものです。
過酷な状況でも健全であり続ける人の持つ性質(SOC)についての話が面白かった。

『SOCとは、周囲の資源をうまく利用しながら、問題を把握し、対処可能性を見いだし、そのプロセスに意義を見いだしながら取り組む力』

人って、自分の好きなことに対しては結構この性質発揮してる気がする
SOCは社会学で言う「自己予言の自己成就」に近いかな。
現実-理想のラインで言うと、SOC-自己予言の自己成就-暗示・催眠術-宗教的信心という感じになりそう。
病気認定を受けるのは安心するためじゃなく、自分の操作方法を学ぶため…
私も一時期メンタルヘルス受けていたけど、今思えば、出来るだけ薬を処方するだけの病院よりは薬+行動療法の場所に行けばよかったし、もっと自分を変える行動をすればよかった。
自称すると確かに解決しようと行動しないね
私の場合、コミュ障だけど、対人バイトしたら変わるかもしれない
あと、「絵が上手くなりたい」発言も言ってる人ほど実行しないって先生とか言ってた。でも、発言してる人でも上手い人いるから、現状に少しでも満足してる人なのかな
現実逃避、か
メンヘラという言葉を自称することである種の「甘え」や「許し」を自分に与えて問題から目をそらすがゆえに成長機会を失う、って話なのかなぁ。
メンタルヘルスっか言葉の力のお話とさて読んだけど
なんかモヤモヤ。
論旨は面白いですが、相関関係は見出せても、どっちが原因でどっちが結果なのかは分からないんですね。
仕事でも同じような状況があるので、そこがもっとも印象に残りました。
自分のことを「メンヘラ」「コミュ障」などと自称するひとはそうでない人に比べてストレス対処能力が低い!という主張、
ふつうに考えてストレス対処能力が低く精神を病んでいるから「メンヘラ」「コミュ障」などと自称してるとしか思えないのだが…。
因果が逆では…。

「自分のことをアル中と自称するひとはそうではない人に比べてアルコールを摂取している可能性が高い!」みたいな話にしか思えないのだが…。
メンタルヘルス・スラングを使用することのリスク測定がしたいなら、常識的に考えて都内の女子大生を母集団にアンケート取るだけではダメで、使用者・非使用者の時系列的研究を行わないと意味ないと思うんだけど…。
PTSDや依存症はスラングではなく疾患名ですよね…?
病をどのように物語るかは当事者やそれを取り巻く社会に強い影響を与える事象だと思うので、メンタルヘルス・スラングの研究自体は意義があると思う。
仮説を検証する研究をがんばってやっていってほしい。
仮説に仮説を重ねるのではなく。
『「メンタルヘルス・スラングを用いるからSOCが低くなる」のか、
「SOCが低いからメンタルヘルス・スラングを用いる」のか』なんて
普通に後者の方が因果関係の主であろうことは疑いの余地はないと思うのだけれど。
「SOCが低いからメンタルヘルス・スラングを用いる」という因果関係に由来する相関というのは調査結果に現れてきて当然の関係性に過ぎないので、筆者の考える「メンタルヘルス・スラングを用いるからSOCが低くなる」の因果関係を見出すにはもっと注意深い調査が必要だろうし証拠が弱いと感じる。
「メンタルヘルス・スラングで自称する者のほうが、事態を把握し、対処可能性を見いだし、そのプロセスに意義を見いだしながら問題に取り組む力が低い」

というのは”障害受容”という重要なプロセスにおける効用を軽視している気がする。
精神障害という事実は受け入れ難いが、メンヘラを名乗ることならできるという人がどれほどいるかという問題。
ひょっとしたら、メンヘラというスラングを用いなければ自己の苦痛を表現する手段を一切持たずに窒息している可能性もある。それって「事態を把握し~」以前の問題だよね。
障害受容にも「入口と出口」がある訳でして。
自分が何者なのか知るための入口は、自称する人の多い開かれた門(それこそ”ギリ健”や”メンヘラ”)からで良いのよね。
厳密性には欠けるが受容しやすい言葉から共通認識へアクセスして、その中で徐々に個別具体的な困りを詳らかにしていくというやり方もある

連帯の言葉としての「メンヘラ」

バランスの取れた主張で良い記事だった。
人間を指す定義の曖昧なカテゴリー(なんらかの精神疾患名、「非モテ」、もっと古くはオタク、腐女子など)ならばこの問題はつきまとう。
メンヘラ、コミュ障、発達障害などの生きづらさバズワードは
多くの人が自分の生きづらさについて研究するためのキッカケ、つまりは
「入口」として価値があるのであって、レッテルを貼って終わりの「出口」の言葉として使われるのは良くない。
もっと言うと自分の生きづらさについて「内省」しすぎるのも良くない場合が多い。
それが自身の行動を阻害する「自意識」になってしまったり、グルグルとネガティヴな思考がループしてしまって生きづらさを助長したりする。だからむしろ、何らかの場での対話を通して、生きづらさを俯瞰した方がいい。
僕の言い方で言えばこの問題だな。
だから「メンヘラ」概念の用法に幅を持たせたくて僕は「メンヘラ批評」を作った。
最近、「概念工学」についての講座に行って納得したのだが、僕が「メンヘラ批評」でやっているのは「メンヘラ」の「概念工学」なんだなと思った。
「メンヘラ」という概念の意味を撹乱していくだけでなく、「どのようにこの概念を使う“べき”か」という規範にまで僕は踏み込もうとしている。
「概念工学」をするのであれば、概念が実際にどのように運用されているかを見る「概念分析」の作業が不可欠だと思う。
先ほどの松崎さんの研究やはらだいこさんの研究は、言葉の使われ方を見ることで、広い意味での「概念分析」を行なっていることになると思う。
「メンヘラ.jp」の意義を概念工学風に書くならば、
近年「メンヘラ」概念が「『構ってちゃん』や恋愛関係などで他人に迷惑をかける女性」、「境界性パーソナリティ障害」などと結びつけられてスティグマ化されてきたのに対し、「メンタルヘルスの問題で困難を抱えている人」と広く定義することで、
「誰でも『メンヘラ』になりうるし、つらいときは誰でも休んだり、逃げたり、弱音を吐いたりしてもいいんだ。それでもあなたは生きていていいんだ」といったメッセージを「メンヘラ」の中に込めることを目指したのだと思う。
「もっと言葉の定義を明確にしよう」「曖昧な言葉は使わないようにしよう」とする人がいる。場面によってはそれでいい。
しかし、それは「ステレオタイプ」でざっくりと世界を切り取りながらこの社会を生きている、実際にそういう人たちが多数いることを無視して象牙の塔にこもることになりかねない
もちろんこれは概念工学的試みにも言えることで、社会における実際の言葉の用法の分析(≒概念分析)を無視し、独りよがりな意味付与をしようとしても失敗するだろう。
また、新しい意味を流通させるのだから、どうすれば人が使ってくれるかというマーケティング的なセンスもどうしても必要になると思う
編集の意向なのか分からないけど、松崎さんのもとの論文の主題はメンタルヘルススラングであって、「メンヘラ」ではないので注意。
どちらかといえば「コミュ障」がメインに据えられている話だったかなと思います。
ほかのメンタルヘルススラングと違い「メンヘラ」は他称だけでなく自称することが積極的に行われており、それ故に包括的な共同性をもたらしているのだけど、あたかもそれが残余なしのカテゴリみたいに考えちゃいかんよね。みたいなことを思いました。
「メンヘラを自称するから対処能力が低い」のか「対処能力が低いからメンヘラを自称する」のか分からないが、両者は悪循環の可能性があるという論旨は興味深い。
しかし「メンヘラ」というスティグマにも参るのに、「メンタルヘルス・スラング」という新たな侮蔑語の召喚はもう少し躊躇ってほしかった。
実に面白いし、健康生成論的な使い方も、疾病生成論的な使い方もしたことあるので納得感ある。
思考を停止するために言葉を使うのではなく、思考をすすめるために使うのが良いのかな、と思う
○「そうか、僕の症状はADHDというのか、だからああいうことが苦手なのかね。であれば、このように働こう」

×「そうか、僕がああいうことが苦手なのはきっとADHDだからに違いない。だから仕方ないんだ」

×の使い方を○に持っていくことはできる。まさに僕がたどった道だし。
メンタルヘルス・スラングをよく言う人が…というより、セルフハンディキャッピングをよくする人が…ってのが真理じゃないですかね
引用元
〈概念工学〉宣言! ―哲学×心理学による知のエンジニアリング―

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