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スイス育ちの私が日本育ちの人との議論で根本的にズレるのは、

西洋では「人はみんな違うから確認と質問が不可欠。勝手に思い込むの失礼。」

というのを前提に話をするけど、

日本人は「普通こうでしょ。みんなこうでしょ。確認するのは信頼してないってこと!」

と同じであることを前提に話すところ。

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人なんてそれぞれのドリーミングで生きてるんだし聞いてみないとわからないよ。

クリアに伝えたらいいのに、わかってるだろうと思って言わない。

「そこまで言わないといけないの?」と日本で何回言われたことか。
わかんないし、聞きたい。

伝わらないと相手の理解力の問題だとするのもよくある。

あなたの伝え方かもしれないし両方かもしれない。

分かりあおうわかりたいと思えばまだ歩み寄れるし気持ちも変わるけど日本では議論は論破することがゴールだと思い込んでる人も少なくない。

おしゃべりは曖昧でフンワカしてて綿あめみたい。

ほんと日本でのコミュニケーションは難しい。

私が生き辛いと思うことがまさにこれ

「こうなったらこう思うのが普通でこう気を使うのが良い人」

みたいなのが全くわからなくて、本当に苦労してます…

敵味方識別信号だから仕方ない

あー…職場の外国人労働者と 上手く会話できないと思ったら そういう事でしたか…
態度を改めてみます

自分が仕事で使っている欧州向けの仕様書が
日本向けの仕様書に比べて10倍以上ボリュームが多いのはそのためなのかもしれないと感じました。

確認と質問ができるのは理性だけど、みんなこうであるはずという思い込みは単なる感情論ですもんね。

クラスや合宿ではこの「どこまでも言葉にしていく」というローコンテクスト文化の特徴が日本社会に今不足してることなので役に立ってるみたい。

同時に日本的な共感力とかチームワークをもっと自覚して理解していくともう世界で怖いものないんじゃない?と思ったりする。

アメリカの文化人類学者のホールさんがこんなこと言ってて、

日本は最もハイコンテクスト、ドイツ系スイス人は最もローコンテクスト笑。

私を知る同僚がドイツ系スイス人ってあなたのことじゃんと教えてくれて日本で付き合ってきた恋人たちとなぜうまくいかなかったか多くの疑問がクリアになった。 

日本にも言葉が達者な人たちはいるけど
個人認識や関係性の築き方がハイコンテクストだから話しても話してもズレていく。

私は言葉が多くて相手を疲れさせるし、しつこいといわれる。
気をつけないと自分はおかしいのではないかという気分になっていく。

でも海外に出ると私普通じゃん?となる不思議。

確かに海外にいると主張し続けないと存在しないことになるから疲れる面もあるけど、日本で育ってない私は日本人の気遣いの力を入れたり抜いたりする感覚的地図みたいなものを持ってないから常に霧の中を手探りで歩いているような気疲れをする。

日本育ちの能動的な人たちはそれをわかって抑えるところは抑えて力抜くところは抜く。
見事だなと思う。

その「いいかげん」な感覚はなん10年日本に住んでもわからない。

でもそういう人たちもやはりハイコンテクストだなと思う。

海外だと確認すればそれでクリア。
プロセスワークのシグナルアウェアネスがあればなおさらよい。

言ってくれないとわからない、というのが基本だから質問もしやすい。
日本だとなんか具体的に突っ込んで聞くことにいけないことをするかのような空気がまとう。

だいぶ長い間、「色々あって」とか「ちょっとね」とかいわれるとすごいインサイダー、アウトサイダー感がでて関係性の間に分厚い壁が生じるように感じてたな。

私もいちいち言わないといけないのはめんどくさいといわれるけど、
日本の非言語の気遣い、曖昧すぎるし、その探り合いの方が私は大変。

対話やSNSのような西洋的コミュニケーションと関係構築ベースの環境も増えてきてる中での混乱は最初にかいた対他者への認識、個人の認識が関係してると思う。

何も言わなくても察するのが気が利く良い子って幻想なんとかして欲しいと思います。
して欲しかったら言って欲しい。
超能力者じゃないからわからない。

日本で気遣い、根回し、配慮、根気、妥協など鍛えられたし、それが日本では「大人になる」ってことなんだよね(苦笑) でも本当にそうかな。

西洋のコミュニケーションスタイルは主張することが得意だけど逆に深く耳を傾けて聴くといつのはイマイチな感じ。

ワールドワークみたいなところでさえも声を上げるロールの方がスペースと時間の奪い合いになる。

それだけ必死なんだけど。

その点日本の人は聴くことで学んだり、自分は脇において譲っていける力がある。

大きな流れとか曖昧でもそのままにして出来事を信頼する力とかもある。

葛藤解決にはどちらも大事な要素。

でも偏ったスキルは抑圧を生む。

あと関係性へのこだわりとかコミットメントも違う。

日本はそこまで関係性に執着しない印象がある。
1人でもいられるスピリチュアルランクが高いからだと思うけど同時に関係性からエッジアウト(抵抗と回避)してしまいやすいから関係が深まりにくい。

そこはスイスも表面的に収める傾向が強いから日本と似てるところもあるといえばあるんだけど、個人認識が違うので抑圧もエッジもシグナルも異なる。

スイス人とセッションする時と日本の人とする時はアプローチを変えないとプロセスは促進されないし。

日本育ちですが、相手の考えてる事は100%分かる訳ではないので確認の為に質問します。
そうゆう人が増えて欲しいです! 綿菓子みたいな会話について行けないので…

スイスはフランスとイタリアとドイツに接する地域なので、共通認識を前提にしない文化が育ってきたのかもしれませんね。日本はその点言うまでもないですが(ハイコンテクスト

一応、日本の哲学者「和辻哲郎」が、「風土」という書物の中に「風土比較論」を展開しています。
ヨーロッパの地理的条件によって、自発的な性格の人が多く、日本の地理的条件によって、受容的・忍従的な性格の人が多い。っと書かれています

地理的条件によって民族の性格が現れるみたいですね
風土―人間学的考察 (岩波文庫)
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前の上司がおそらくローコンテクスト側の人間で、なにかを相談するために精神的に詰められた気分になってキツかったのを思い出しました。。。

ローコンテクスト的な相互理解するのはネイティブな日本人からするとかなり高いハードルがあると感じます。

米国で働いていますが、米国はローコンテクストでわかりやすい(細かく言わないと伝わらない)、日本人出張者が来ると「あれ、それ」というハイコンテクスト(細かく言わなくても伝わる)で分かりにくいです。
決して、どっちが正しい等ではなく。皆違って皆いい、十人十色、長所は短所、ですからね。

「どうしてそう思うの?」とか
「なんで?」と質問を重ねられると

「えっ、私なんか可笑しかった?変なこと言った?」

と問い詰められているようで
不安になってしまう経験があります…。

これは相手がローコンテクストで
私がハイコンテクストだったからでしょうか?

Apollonlo これ不思議なんで根拠もなく私の個人の体験だけですが、
日本だと私もそれを感じます。国外では特に感じないのに。

フィールドや土地にある主となるカルチャーが個人に影響してると私のやってるプロセスワークではみたりします。

Apollonlo 日本でそのように相手を問い詰める場合、相手を知りたいからではなく、糾弾する意味合いでしている方々が多いからだと思われます。

Rainyday_apple Apollonlo 問われるという体験が違う意味を持つのかもしれないのですね。
参考になります。

人は皆違うから確認が必要←せやな
日本は西洋と違って思い込むからだめ!←??

文化や価値観も地域ごとにそれぞれ それが嫌だっていうなら勝手に西洋にでもなんでも行けばいいし自分の価値観を押し付けているのは貴方自身では?
自分の育った西洋のスタイルが正しいと思い込んでいるのでは?

確認するって言うのは大事なんですけど常識化されるとそれを道徳にまで持ち込む輩が増えそうで怖い

例えば客観的に見て助けなきゃいけない人を前にして「助けを求められて無いから見捨てました」とか逆に助けられた人が「彼が勝手に私を助けたので礼はいいません」とか

違うこと、だから話すこと
すり合わせ、距離を測ることが『異常』と言われるのって理不尽だよね

営業マンとして認識のズレがないように 確認しながら話すことは逆に当たり前になってるワイ
大勝利

いい文化であり悪い文化である。 難しい・・・。

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引用元

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