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RT>酷いことを申します。エッセイ漫画で、こころの病の方が自分の経験を描いたものがたくさんあります。その体験は惨すぎる…と、思いつつ、気になるのが、他人に酷いことをされたことは冷静に描写してるのに、自分のその症状が周りの人をどれほどナイフで削いでいるかは語られないんですよね…。
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反応&感想

それ以上いけない案件だけど、どこかで向き合わなきゃいけない事でもあるよね。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
エッセイストは被害者面しすぎって言ってるように聞こえるのは仕方ないけど、
この話は心の病を取り上げたエッセイを読む上で大事な話(公平な視点を持つために必要な疑いの目)なんだよね。
初めの一文はそんな判りきった揚げ足取りを牽制するためにつけたはずよ🤔  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
自分が発達障害のコミュニティに参加していた際にも「(世に出ているエッセイ本を見て思うに)自分がこう感じていた時、周りはこう思っていたという相関的な視点があった方が、当事者にも、そうでない人にも為になるのではないか」という話になったので、この指摘は鋭いと思います。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
毒親から受けた体験を告発するようなエッセイ漫画を描いていた人が
後に結婚して自身が毒親化したとき、被害者となった家族の苦悩には特に触れず他人事のようにサラッと描いていたりするから、主観が強すぎる人のエッセイ漫画はバランスの悪いものも多いのだろうなという印象は持っている。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
@dozinchi2 うーん、でも人間そんなものかと。

他人がどう思っているかなんて完全には分からないですから。
エッセイ・体験談ものはそういうものでは?
多角的報告書みたいなもの
(主人公目線、家族目線、加害者目線、医者目線、カウンセラー目線とか?)
を所望ならそれはエッセイではないぞ
エッセイの定義。。。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434  pic.twitter.com/xDnhSyJsTg
「語られない」のではなくて、「語れない」な気もするんですが、患者、治療者、縁者それぞれに見える世界があって、まだまだ相互理解ないし了解のプロセスが成熟していないことが問題のように思います。

消費されるものであるからこそ余計に削ぎ落とされる部分はありますし…

常々考えさせられます。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
@dozinchi2 ラーメンの魅力を語りたいエッセイに豚カツのエピソードを混ぜたら主題がぼけてしまう。だから豚カツの話はカットする。

エッセイとして考えればそんな捉え方もできると思うのです。変でしょうか?
@snj_esk @dozinchi2 中村氏が指しているのは
「ラーメンマジうまい。ラーメンに豚カツ乗せたら最高じゃね?(豚カツ屋には止められたけど)試してみたら全然ダメだわ豚カツ屋ってほんとクソだわ。ラーメンマジうまい。」
ってマンガの話だと思います。
( )部分を描かなかったらそりゃ豚カツ屋も気分悪いわっていう。
それを自覚したらいよいよもって心が保たなくなると思う。
渦中にいるときは周りの人のことなんて本当に考えられなくなるからね……。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
周囲の人に対する保護というのも必要だとは思うけど、調子が悪い時に患者本人が周囲に気遣いできるかというとそれは困難だと思われる  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
俺の体験に基づくものだけど、
こころの病の人はもうそこまで意識を回せないくらい症状が進んでる場合も多いんだよなあ。
実際に何も患ってない人はなんとでも言うんだろえけど、ちょっと理解が足らんとちゃう?貴方が健康である故に当たり前にできることは当たり前ではない人もいる  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
これすごく難しいところなんだけど卵が先か……的な話で
こころの病になった大元に種々の「認知の歪み」があることも多く
そのうち「感情的決めつけ」「個人化」「マイナス化思考」「一般化のしすぎ」などが強い、もともと客観視ができない人が二次障害的に発症してる可能性も……  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
 https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 

これ、当事者に対する周囲の対応コストの話だと思うんだけど、当事者側も周囲に迷惑かけまくってる自覚はあるしかといって自分の障害特性はどうにもならないので、自分が生きて周囲に迷惑を掛けるか自分が消えて周囲に迷惑をかけなくするかの地獄のような二択にしかならない
多分ですが、
まず自分が受けた傷をある程度修復し、自分がそこそこ健全な強い状態にならないと、自分が傷つけた相手への気持ちまで、作れないのではないか、
というのと、作品としてテーマが分散し、読む人がどう読んでいいのか混乱するからというのもあるかもしれません。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
被害者としての自分に向き合うより、加害者としての自分に向き合う方が、はるかに精神力を必要とすると思います。
そこまで行き着けるのは、病を克服して大分たった後になるのではと思いますが、
それを作品として発表できる状況にまでなる人は少ないと思います。
当然多くの非難が寄せられるでしょうし。
また、作品として主軸になる部分と逆の部分を入れるのは、技術的に難しいです。
読者は「被害者の主人公」に感情移入して読みます。
そこで「主人公は実は加害者でもあった」という側面を入れるのは、
長い尺の作品で、かなり上手に調整しないと、読者を混乱させます。
漫画として高等テクなのです。
あとは作品の目的にもよります。あくまで病気の当事者の役に立ちたいという目的なら、当事者を傷つけるような描写は避けるしかないです。
目的に反しますので。
でも当事者の周囲で支える人の参考にして欲しいなら、自分が傷つけてしまった人への思いや当時の気持ち等を描くことも大切なように思います。
心の病じゃなくても、被害者は加害者と簡単に入れ替わるものなんですよ…。
被害を丁寧に見つめ直すことで、自らの加害性に気づいていく方もおられると思います。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
田中圭一先生の「うつヌケ」だとそのあたりも描かれてますね。
ウツのときは周囲の人はみな悪人だと思っていたけど、改めて考えると全く違ったと。病による認知の歪みであると。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
本人もしんどいけど周囲の人もしんどいぜっていう話な。
なんでも一方通行とか10:0とはいかんよなって。
どっちも生身の人間って点では同じ。これが逆転することもあるかもしれないわけで。
医療、介護、福祉の重要なテーマというか。患者や障害者の家族や関係する人のフォローやケアも大事だぜ。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
仕方がないんだよ。
歌を作ろうとすると『わたしは』って一人称から始まることが多くて、そんな視野の狭い自分が恥ずかしくなって止めてしまう。
しかしわたしの紡ぐ二人称視点や三人称視点はまた薄っぺらく感じて駄目だ。
主観だけがリアルだ。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
こころの病関係なくエッセイとは常に主観的なものなので描写が一方に偏ること自体は肯定するけど、問題は当人が執筆過程でそのアンバランスさを自覚した上で表現しているか否かだと思う。
アウトプットは同じだから見分け付かないけど、、  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
俯瞰してみれば、ナイフで削られ肉切り包丁でバラバラにされた側の本もたくさんあるから、それでバランス取ってるんだなあと思ったり。
どうかみんなが苦しまず、その時その時の自分の心や感情に寄り添ってくれる本を選んで読んでくれればいいなあと思います。  https://twitter.com/dozinchi2/status/1519262228834578434 
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