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親ガチャの本質は「階級闘争」と「貧困の再生産」

親ガチャという言葉、一般人向けにイメージの解像度が下げられると同時に概念のデチューンがめちゃくちゃ強くかけられてしまって一瞬で原型を失った。
親ガチャという概念のコア部分、
『よりによってSRやSSRを引いているやつにかぎって、その自覚なく自分の努力で成り上がっていると思っている』
という点なんだけど
これを語る上で『親ガチャ』という名付けはめちゃくちゃ論旨の踏み外しを誘発するので、これ名付けたやつが悪い気がする
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上級国民とか親ガチャとか、

ここ数年のネット流行語には日本社会の停滞・二極化や階層的流動性のなさへの底しれぬ怨念というか、強い負の感情が込められているような気がする。

すでに「無敵の人」問題とかあるけど、こういうのを放っておくと、より大きな社会不安の種になりそう。
人間の不遇を親ガチャなどという「運が悪かった」的な浅薄な表現に落とし込むべきではないね。
親なんかより遥かにデカくて強い存在が個々の不均衡を公正化する義務を放棄しているということをね、都合良く忘れさせるだけです。
「親ガチャ」があるなら「政府ガチャ」「国ガチャ」「人種民族ガチャ」もあるって話につながっていくし、高橋優さんが指摘されてたけど「じゃあ運営元はどこなんだ」ってことになって結局はおかしな方向に回収されていくから、適切でない例えをあまりもてはやすものではないと思う。
親ガチャなんてふわっとしたワードじゃなくて階級闘争って言え。

「親の愛情信仰」へのカウンター

「親ガチャ」って賛否両論あるみたいだけど、
俺は言葉ができたことで、共感や救いが生まれたって思うんだよな。

拒否感を感じる人は自分の想像外の過酷な家庭環境があるって思いやって欲しいな。
あとメディアに気をつけて欲しいんだけど
親ガチャは貧乏親VS金持ち親みたいな単純な話しじゃないんです
「親孝行」
「どんな親でも子供を愛している」
「子供は親を選んで産まれてきた」
「親を大事にしろ」
実は当たり前に使われてきたこんな言葉にひそかに傷ついてきた人がいる。


俺も皆が当たり前に手に入るものが、手に入らなかった。だからせめて「親ガチャ」くらい許してくれという気持ちがある。
若者が『親ガチャ』なんてけしからん言葉を使ってる!って最近マスコミが騒いでるけど、
私がもともとこの言葉を知ったのは虐待経験者達が安全で健全な親子関係を経験できなかった、という嘆きの言葉としてだったので、金持ちは親ガチャ当たり、貧乏はハズレ、みたいなマスコミの解説は大いに違和感ある
親に感謝できない若者けしからんって盛り上がりたいならどうぞご自由にだけど、
ネグレクトや暴力がある家庭に育って成人後も生きづらさや自己否定感に苛まれる人が「親ガチャ」という言葉にほんの少しだけ気が楽になる事もあると思うんだよね。
被虐待のケースを取り上げずに若者いじりネタにせんといて
わたしも親ガチャ論は「いい年した大人が真面目に主張するものではない」と思うけれど、普通の人より恵まれた半生を歩んできたであろう人に親ガチャを否定的に語られても、それはそれでねえ、という気持ちになる
てか"親ガチャ"って言葉に不快感示してる人ってなんなの。
"生き物は産まれてくる環境も親も選べない"ことをわかりやすい表現で表してるだけじゃね?
「産んでくれた、育ててくれた親に向かって〜」って思考なんだろうけど、親ガチャはこの世の真理で真実です。親側には産むかどうかの選択権あるけどね。
親ガチャっていう言葉はどんどん使われたらいいと思う。
ここでもたびたび議論になるけど、
この社会は、親の愛情信仰が強すぎ。
金のあるなしじゃなく、子供を愛さずに苦しめる親も存在する。
親の愛にも例外があることが認められ、親も評価を受けうる存在になって欲しい。
虐待というと目立つ行為だけに注目が行きがちだけど、親から子への虐待の本質は「親が子供の自由意志を奪う」ってとこにあるんで、見た目まともそうな親子でも油断してはいけない。
いくら金持ちの家で綺麗な格好していいもの食べてたところで、その立場が「親の人形」でしかないなら子供にとっては地獄でしょ。親ガチャのハズレってのはそういうこと。
芸能人が親ガチャについて語ってる記事とかをみると、論点がお金の有り無しになってて違うのよって思う。
貧乏は子供にとって辛いかもしれないけど、親から否定され続けたり暴言を吐かれたりすることのほうがよっぽど辛いのよ。
私からすれば貧乏でも愛のある親ならハズレなんかじゃ全然ないのよ。
「親ガチャ」という言葉、否定側は親ガチャを「親の人格が悪かった」的な意味で捉えている1方、
肯定側は「親の人格は勿論として遺伝や環境や所得や地域など親本人の自助努力が及ばない範囲含めての不遇」的な意味で捉えてる違いがあるんだよな
「毒親」も「親ガチャ」もそれが必要な人のための言葉だからその人が使うかどうか決めたらいい。
使う必要のない人がジャッジするのは酷すぎる。
家や家族の地獄は当人にしかわからないし外の人間が何かを基準にはかれるものでは決してないと思う

「自己責任」「努力信仰」へのアンチテーゼ

親ガチャどーので1番厄介なのは「自分は貧乏だけど、片親だけど、努力で成功しました」ってタイプだと思う
親ガチャって言葉が甘えとか子供のワガママにしか見えん人がいるのは残酷なことだね、、
親ガチャという概念は単純な事実としてそこにある格差であり、

決して「自分に出来る範囲で出来る事を頑張る」を否定するものではないんだけど、
多くの人間が「親ガチャ概念を認める=人生を諦める」と認知してるの、
如何に公正世界信念が人間達のモチベやアイデンティティと密接合されてるか?という話
親ガチャの件で「自分は親に恵まれなかったけど、努力して幸せになったから、同じ境遇の人たちも親ガチャなんて言わずに自分で努力しろ」みたいなこと言う人は、
「大変だったけど努力して幸せになれて良かった」って誇っていればいいんだよ。
自分を誇る時に、同時に他人を下げたり責める必要はない。  https://twitter.com/vtuberrena/status/1439212100283363330 

親ガチャと宿命論

親ガチャって言葉は、最近の若者の宿命主義的な世界観とマッチしていていいんじゃない。
親ガチャって言葉でなにか社会運動をしたいんじゃなくて、厭世的なムードを共有するモードなんでしょ。
親ガチャ=宿命論は自己責任論への反動でもあるんだろうね。
近代という時代は、親ガチャ=宿命と対立し乗り越えようとエディプスコンプレックスが機能したけど、いまはもう機能していないってことなん?
親ガチャとエディプス・コンプレックスと宿命
「AC(アダルトチルドレン)」から「毒親」へ。
そして、「反出生主義」「親ガチャ」へ。
というのはまさに宿命論的な考え方に近づいていっているのかなと思う。

「文化資本」という言葉が日常語として流行っているのも同じ感じがするし、もっと広げれば進化心理学のブームも?
生得属性や家庭環境を「宿命」だと考えることについては、実は効用がないわけではない。

「宿命」を受け入れれば、まず、ある種の「諦め」が許される。
そこで終わらず、「どうしようもない」ということを出発点に、
変えられるものを変えていける可能性はある。


「コントロールへの強迫」を手放すこと。
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