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◆「小さい人」という呼び方について

最近、コドモを「小さい人」と呼ぶ人が少しずつ増えているようです。(保育、学童、教育関係者など)おそらく、コドモが低く扱われる現状に対して大人と対等の存在として認識しましょうという意図からなのだろうと思われます。→
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そうした意図もわかりますし、その呼び方が悪いとも思わないのですが、踏まえるべき視点を外してしまうと、この呼び方には大きな問題が発生してしまうので、その指摘をここでしておきます。→
近代以前の状況では、コドモという概念がそもそもなく、まさに「小さな人」でした。
大人とコドモの境目がないので、現代では当然とされているコドモとして守られているものが保障されていませんでした。→
いまでいう児童労働は当然のこと。
コドモという概念がないので、教育をうけることや、生命や生活(食べること、清潔にすること、家庭の大切さなど)を守られる、遊びを許される、そうしたことも認識されていません。→
子供→子ども→小さな人

という変遷もコドモ尊重の意図の上にわかるのですが、
コドモ概念という近代の昇華のひとつを埋もれさせるのは、僕は場合によっては危険ではないかという心配もします。→
「小さな人」という言葉が流通されうるのは、
コドモとして保障される権利が十分に全うされた状況だけでのことです。
今現在でも世界の国々では、児童労働が一般的に行われています。児童の兵士すらあります。世界的にみれば、まだ「コドモ」概念の敷衍が終わっていない状況です。→
日本で一般的に暮らしている分には、「コドモ」概念は十分に全うされていると感じるかも知れません。
しかし、現在の日本ですらまだ児童(コドモ)として権利を守られる状況は少しも十分とは言えないのが実際の所です。→
児童労働、児童ポルノ。
教育を受ける権利もまったく不十分です(不登校の子ども達が十分な教育支援を受けていないこと一つみてもわかりますね)
児童虐待、ネグレクト。
児童の貧困。
「コドモを甘やかすな」といった一般的な言葉も、コドモの概念が十分にまだ認識されていないことを表しています。→
性被害にあった子が、逆に大人から責められるような事態すら起こっています。
妊娠した生徒が教育の場から排除されるようなことも、公におこなわれています。→
また、今後の世界的な経済低迷は日本においても深刻な影響をもたらすでしょう。それは前近代の「コドモが守られない状況」を再度日本のコドモにももたらす可能性すらあります。
そうなったとき、いまよりさらにコドモ概念を維持することが重要になってきます。→
コドモを「小さな人」と呼ぶことに僕は反対しません。
しかし、単に「大人と対等の存在と認識しましょう」という視点だけで、人類が多くの犠牲を払って獲得した「コドモ」概念・呼称をそこから外してしまうことには、十分な注意を払わなければならないと指摘します。
そこを踏まえて、今後のコドモに関わる文化を発展していただきたいと思います。(了)
引用元
私も自分の子どものこと、「小さい人」と表現することがあります("little human being"のつもりで)でも、こちらの一連のツイートを読み、考えさせられました。ないがしろにできない視点だと。  https://twitter.com/hoikushioto/status/1280335647035670530 
アリエスの子供の誕生ですね。

研究方法の波及の方は大きいですが彼の研究内容はあまり知られていない感はあります。  https://twitter.com/hoikushioto/status/1280335649258631172 
子供という概念の形成

フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが著書『〈子供〉の誕生』で述べたところによると、ヨーロッパでは中世に至るまで、「子供」という概念は存在しなかったという。年少時の死亡率が高い社会だったので、生まれ出ただけでは家族の一員とみなされなかった。やがてある程度の成長を遂げると、今度は徒弟や奉公など労働に勤しむようになり、「小さな大人」として扱われる。そのため、服装や娯楽等において成長した大人と区別される事は無く、性道徳に関しても何らかの配慮がされることも無かった[27]。ただし、13世紀イギリスでは、宗教および法律の観点から、大人とは異なる子供の概念があったという主張もある[10]。

日本では、子供は親の所有物という感覚が強かった。子供は家を継ぐことが当たり前であり、親に絶対服従しなければならなかった。農村など貧しい家では、貧困に見舞われると身売りや奉公に出されたり、捨て子や間引きが行われたりした[28]。

ジャン=ジャック・ルソーは1762年の著書『エミール』で展開した消極教育論において、子供を「小さな大人」と扱う事の非を説いた。彼は、誕生してから12歳になるまでの期間は、子供時代という[29]能力と器官が内部的に発展する段階であると述べ[30]、多く施される発展した能力や器官を利用する方法を教える教育(人間の教育)は逆効果であり[29]、能力と器官を伸ばし完成させる教育(自然の教育)[29]を行わなければならないと主張した[30]。

成年ではない者としての子供という概念は、中世において男子に限り発生したが、女子については形成されなかった[10]。幼児と成年の間としての子供観は、近世になってから確立された[10]。16-17世紀頃から現れる家族意識の中で、家庭内などにおいて幼児は、その愛らしさから可愛がられる対象という視線が醸成された。また社会的にも、聖職者やモラリストらによる理性的な習俗を実現させようとするグループから、子供に対する配慮が生まれた。これらが18世紀頃には結びついて、社会は子供を「小さな大人」という見方から、庇護し、愛情を傾け、学校による[10]教育を施してやらなければならない存在という風に認識が形成された

(wiki)
一連のツリーは保育者は必ず学ぶことですが、広く認知はされていないと思う。読んでほしい。

子どもを「小さな人」として尊ぶことには問題はないが、だからといって大人と同じだという事ではない。子どもは常に「守られる人」でなければならない。
この呼称によって、その意識が薄まる懸念がありますね  https://twitter.com/hoikushioto/status/1280335647035670530 
障害者基本法には障害児についての記述がなくて、数年前にやっと加えられたと思ったら "障害者である子ども” というよくわからない日本語になっていたのを改めて思い出した。  https://twitter.com/hoikushioto/status/1280335647035670530?s=20  pic.twitter.com/MeQZ3EhSws
"現在の日本ですらまだ児童(コドモ)として権利を守られる状況は少しも十分とは言えない"

近代においてようやく獲得したコドモという観念を、「小さい人」と呼ぶことでコドモが守られない状況をもたらす危惧があり、これについて十分な注意を払う必要があるという指摘を大人は考えた方が良いと思う。  https://twitter.com/hoikushioto/status/1280335647035670530