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画像: 「金剛寺さんは面倒臭い」(とよ田 みのる)より
アニメや映画にLGBTが出ないという問題、チェーホフの銃で説明できると思うんだよな。

「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」

目的もなく存在するLGBT要素というのは、映画にとって発砲されないライフルと同じなんじゃないかと。
数年前にラジー賞を受賞した「ジャックとジル」という映画があるんだけれど、
その批判点の一つに「白人夫婦の息子が何の説明もなく中東系」というのがあったんだよね。
ポリコレ的に正しい家族像ではあるんだけれど、映画としては観客に無用な混乱と推察を与えてるだけで失敗なんだよね。
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チェーホフの銃

ストーリーの早い段階で物語に導入された要素について、後段になってからその意味なり重要性を明らかにする文学の技法。この概念は、ロシアの劇作家アントン・チェーホフに由来している

チェーホフの銃は、伏線の手法のひとつと解釈されるが、この概念は「ストーリーには無用の要素を盛り込んではいけない」という意味であるとも解釈できる[1]。チェーホフの銃のルールを守らない作品は、プロットの穴(英語: Plot hole)を論じる際に批評家に引用されることになりかねない。

チェーホフの銃という表現は、ストーリーに持ち込まれたものは、すべて後段の展開の中で使わなければならず、そうならないものはそもそも取り上げてはならないのだ、と論じた、アントン・チェーホフ本人の言葉に由来している。

「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」アレクサンドル・セメノビッチ・ラザレフ(Aleksandr Semenovich Lazarev)(A・S・グルジンスキ(A. S. Gruzinsky)の変名)に宛てたチェーホフの手紙、1889年11月1日
「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである。そうでないなら、そこに置いてはいけない。」1904年に『演劇と芸術』誌に掲載されたイリヤ・グリヤンドの「チェーホフの思い出」[2]
「もし第1章で、壁にライフルが掛けてあると述べたなら、第2章か第3章で、それは必ず発砲されなければならない。もし、それが発砲されることがないなら、そのライフルはそこに掛けられるべきではない。」S・シチューキン『回顧録』(1911年)
(wiki)

反応・感想

そうなんだよな、わざわざ映画に本筋に関係ないLGBTをポリコレ的に無理やり出してくるのはチェーホフの銃に反するんだよな(今更
良く分かります。
カレーを食べているところで、これも体に必要だからとお寿司を入られても困ってしまう。
混ぜないでくださいってなる。
なーにが説明できると思うんだよな(ドヤァ…)だよ
なんの必然性もなくヘテロは出てるのに
目的もなく存在するなって言われる人間の立場になってみてほしい
先日からチェーホフの銃の話題が度々流れて来るんだけど、
思い出すのは、大学のゼミか何かで男子学生が
『僕は社会に同性愛者がいても良いと思います』と発言したところ
教授が直ちに
『あなたに居ても良いかをジャッジする資格はありません。彼ら現に『居る』んです』
と指摘したという話
セクマイだから
恋愛が主題じゃない映画見てる時急に登場人物たちがノンケ行為をし始めるとビックリしちゃうし素直に何で???ってなるんですけど、チェーホフの銃理論でお気持ち表明noteとか書くと狂人扱いされそうじゃないですかなのだ?(藁人形)
作中の唐突なLGBTをチェーホフの銃で不要とする人は
ヘテロ恋愛描写も同様の理由でいらないと思う層なので
差別とか嫌悪とかじゃなくて極めてシンプルな「シナリオに何も関わらない要素で尺を使うな」という感想なんだよなぁ
チェーホフの銃、「じゃあ創作の乳揺れは?」と反論されてて笑っちゃったな
シリアスなシーンで物理とか人体構造無視して乳を揺らせて喜んでいるオタクがチェーホフの銃とか言ってるのまじウケるな
「チェーホフの銃って知ってる?作劇上必要でないものは出すべきでないんだって。だから性的指向が伏線になっていないかぎり創作にLGBTは出すべきじゃないね」
「だったら名前が伏線になっていないかぎり創作の主人公の名前は全員エヌ氏にすべきだな」
出す必要も無ければ、出さない必要もないわな

「LGBTを銃だと思う感性」は一般的なのか…?

LGBTの登場程度のことをチェーホフの銃なみのインパクトで受けとめてる人、
実際にはあまり本を読んだり
映画を観たりしてきてない人なのかなと思ってしまうんだけど、

チェーホフに親しんでるのなら、そうでもないのかな?
『ベニスに死す』とかでも必然性がないな~と思いながら観てんの?
LGBTにチェーホフの銃の例えを出す人にとっては、たとえば女性の外科医や、外国人のコンビニ店員や、一人暮らしの部屋にあるルンバやウルトラマンが好きな女の子も実弾の入ったライフルなんだろうなと思う。
逆に、登場人物の一部は、明示されてないだけでLGBTと考える事もできるのでは。
性的指向や、出生時の性別は、現実社会では明示されないのが普通で、勝手に皆が外観で決め付けてるだけ。
映画の中も同じ。明示した瞬間に、目的が必要になるのでしょう。
「LGBTが銃だと思う感覚が」が古いって話かと。

エンタメ先進国では数年前から当たり前のように同性愛カップルや車イスの会社員や肌の色の違う親子が伏線でもなんでもなく登場しますね
「LGBTは我々の周りに普通にいるんだ!」ということをいいたがる人、
実際にその人の周りに何人LGBTの友だちがいるのか気になる。
数字として現れるLGBTと、それを告白して自分と友達付き合いしているLGBTの数には大きな隔たりがあると思う。
特別な運動でもしてない限り、一人いれば珍しい方じゃないか?
さっきの話と人数が何の関係があるのか分からないけど、
オープンリーレズビアンとして長年仕事とSNSと私生活回してる私と付き合いのある人は全員最低でも一人は「同性愛者と付き合いのある人」になりますな。
で、ほんとに人数が何の関係があるの?
私はここにいるよ。
あなたと友達になりたくはないが。
tori7810 そういう関係を持っている方はまだ希少ではないのか、という話です。
例えば映画というのは基本的に主人公の目線を通して描かれます。
同じ”LGBT”でも「LGBTの友人」と「ヘテロの振りをしている友人」では
後者を”LGBT”として描きようがありません。
LGBTの偏在性と一般人の認知性は断絶があります。
カミングアウト問題も相まって、ヘテロにとって「LGBTの友人」という存在は依然希少であるのではないか。
作劇においてそういう特異性を登場させるのはチェーホフの銃(=物語的な意味づけ)になってしまうのではないか、ゆえに物語に登場しづらいのではないか、ということを言いたいわけです。
例えるなら、もし映画に片腕のない悪役が出てきたら、観客はその腕がなくなった経緯を「期待」してしまう、ということです。
けれどこれが戦後直後の映画なら、「ああ傷痍軍人なのだな」と納得できるかも知れません。つまりコレクトネスというのは社会情勢の反映でもあります。
LGBTというのは、一般人の目線には偏在していないと思います。
まだ「珍しい人」「どこかにいる人」。そのような人物を画面に出してしまうと、先程の例のように、観客はその物語的な意味を「期待」してしまうでしょう。

いつか、LGBTが本当の意味で「当たり前」になればそのような期待も消えるでしょう。
けれど、観客は(社会は)まだその粋に達していない、ということを言いたいわけです。

先程の養子縁組のツイートも、アメリカでは「ふつう」と仰っしゃりましたけれど、「説明もなく人種が違う」という批判をしてたのは私ではなくアメリカの書評の方で、「ふつう」と作劇の正しさには溝があります。
最後にこれは言っておきたいのですけれど、私は始終「映画にとって」「映画としては」と断りをつけてツイートしておりまして、全て物語の作劇上の意見であります。
それも、観客がどう思うか、製作者がどう作るか、という話をしてるのであって、LGBTを映画に出すな、とかいった話は一切しておりません
個人的には長らく同性婚運動に賛同しております。
「インディペンデンス・デイ リサージェンス」など、当たり前のようにLGBTを描写できた映画があればそれを称讃してきました。
私と友だちになりたくないというのは結構でありますが、作劇の技術論の話とポリティクスを直結されるのは困ります。
むしろ、違和感上等で突破し続ける事がフィクションから現実を変える事になるんじゃないですかね?
チェーホフの銃の話
「ここは特殊な人を出す必要がないから普通の人間を出そう」と言う時の「普通の人間」が「壮年白人成人男性」しかなかった頃からだんだん「年代問わず男性」「女性」「有色人種男女」と拡張していった歴史の話と思うと
今まさにまた少し広がろうとしてるんだなと思ってウキウキする
言わんとすることは分からないでも無いけど、
物語上何の必然性も無くLGBTが登場したら、それはそれで別な方向からの差別につながると思う。
何の必然性もなくヘテロが登場するのと同じように
何の必然性もなくLGBTが登場するというのが最も望ましい状況であるというのはその通りだと思うけど、
それは物語ではなく社会が変わるべきという話なのでは。
現在の社会においてはLGBTを物語に登場させるには何らかの必然性が要請される。それを間違っていると言うなら変わるべきなのは社会であって物語ではないし、今の社会で何の必然性も無くLGBTを登場させてもあまり良いことはないんじゃないかな。
チェーホフの銃、道具に関してはそうだろうけど
LGBTは意味もなくそこにいて当たり前なんだから全く描かれないこと(いないように扱われていること)はやっぱり不自然なんだよなあ

「チェーホフの銃」への誤解について

チェーホフの銃の概念のややこしい所は

「物語に影響しないなら出さなくて良い」

であって、

影響を与えるなら「発射されない銃」もアリ

ということなんだよな。

実際主人公が銃を撃つか撃たないかで引っ張って最後に撃たなかったならそれはチェーホフの銃の概念としては正しいわけだ。→
→で、その理論で言えば
「特に必然性のないLGBT」は「必然性がない」と言う要素によって副次的に物語に影響を与えている
と言う解釈も可能だという事になる。(仮に作中そのものに影響はなくとも読者に「LGBTてのはフツーにいるんだなあ」と思わせる効果は期待できる)→
→要するに正しさ正しくなさ以前に「必然性がないからこそ働く効果」というのも創作テクニックにはある、
という話で、製作側がその辺を考えているならあとはそれを採用するかしないかは製作側の判断や選択に任せるべきではないか、という話だと僕は思っている。
ロシア文学超ビギナーなのであんまり偉そうなことは言えんけど、「チェーホフの銃」って余計な伏線をはるなとか、小道具は有効に使えって類の作劇上の作法を言ってる気がするから、それを引用してポリティカル・コレクトネスを批判できると思ってる人どう考えてもおかしいし、
そもそも、
マイノリティーを作品上に登場させる事を目障りだと感じる感性ほど、チェーホフの世界から遠いもんはないと思いますけどね。

だって、作品中に物乞いの少年とか、ユダヤ系のバイオリン弾きとか当時の感覚だと「居ないこと」にされかねない存在を積極的に出してる作家だし、
わざわざシベリアに行って(医者でもあったので)流刑地の囚人の生活調査とかやってる人やで!
チェーホフの銃は「物語に登場した事物は”すべて”後で使われなければならない」とするものだけど、これには「”印象的な”事物は」って但し書きがあるはずだと思うんだよね 
チェーホフは劇作家だし、演劇はかなり抽象化された空間で背景に無駄なものは比較的映らないものと思う
チェーホフの銃という考え方は当然理があるし、物語に同性愛者などマイノリティをわざわざ登場させることをチェーホフの銃の考え方から倦厭する観客がいるのではないか、というのもありえる話だろうと思うけど、マイノリティをここでいう「銃」と捉えてしまう認識こそ変えていかなきゃなんだよね
LGBTはチェーホフの銃理論によって除かれるべきか問題

批判の対象はその作品ではなく、LGBTをキャラとして出すことが物語の特別な要素になる(=一般人にとって自然なことではない)と感じる人々の規範意識であることには留意しなければならないな
チェーホフの銃から始まって、その批判を介し、「マイノリティを出すときに作劇上の意味を持たせること自体が多数派の差別に従っていたんだなあ」という見解にストンと納得していく人が増えている状況に、
なんだかんだいって、歩みは遅くても変化していくもんなんだなあと思う
引用元
きのう何食べた?(15) (モーニング KC)
よしなが ふみ
講談社 (2019-03-22)
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