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興味深い問答。
「アルジャーノン問題」とか簡単に括ってしまってはいけないのかもしれないけど、"精神科の薬による治療の根底にあって、しかし普段は触れられることのない非常に深いテーマ" というのも確かに。
コンサータによって自己の連続性を失いつつある(Dr.林のこころと脳の相談室)


Q: 私は某大学の法学部に通う21歳の男子学生です。
(質問とは、直接、関係はありませんが、触法精神障害者に興味があり、それについて卒業論文を書くため、日々、資料を集めております。)

質問に入る前に、長文になりますが、質問に関わってくることなので、少し、コンサータ の服用とそれによる私自身の感じたことを書かせていただきます。

私は、精神科にてADHDと診断され、コンサータ を服用して数年になります。

コンサータ 服用当初は、コンサータ によって、感覚過敏から解放され、初めて、ゆっくりと本を読むことができるようになり、感動のあまり泣いてしまいました。
この感動はあまりにも激しく、「私は、もう完全に『脳』を支配した」という優越感(あるいは、副作用としての多幸感に過ぎないのかもしれませんが)を得ました。


ところが、数ヶ月たち、このコンサータ 服用後の精神の変調が、私の悩みの種になってしまいました。
私は、今まで、脳と精神を分離して考えてきました。
ですから、あらゆる行動に対して、私は何ら脳を意識することなく、(医学的には擬制なのかもしれませんが)意識=精神が主体となり、客体は、それ以外のものであると、経験的に認識していました。


しかし、主体としての精神が、コンサータ の服用によって変容することで、私は、「自己が連続している」という、多くの人が当然考えているであろう常識を疑わざるを得なくなってしまいました。


また、同時に、メチルフェニデートが、脳に働きかけているという科学的な事実が、この精神の変容という事実と合わさることで、脳=精神という、明確な結論を導き、その結論に向き合うことで非常に動揺しております。


精神の座が脳であることなど、言わずとしれた常識なのですが、いざ、それが明確な形で体験されると、
私は、あらゆる現象が、所詮は中枢神経の発火に過ぎないという絶望感=「副作用」を毎日、毎日、経験しているのです。

私は、いっそ、コンサータ を飲んでいる時が、真の私であり、他は全て、異常として認識することで、それを解決しようとしました。
具体的には、コンサータ が切れかかったら、直ちに睡眠薬を飲み、コンサータ が服用されていない状態をできるだけ回避することで、コンサータを飲む前の私と、飲んだ後の私という自己の連続性の断絶を防いでいるのです。

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当事者の反応・感想

自己の連続性、これずっと疑問に思ってたことだ。
服薬が怖い気持ちって、どこまでが自分なのかわからなくなる不安も含むんだよな。
とても興味深いというか、同じことは何度も考えたことがある。
しんどい症状を薬によって緩和しているのが本来の自分か、症状全開で苦しいのが本来の自分か。
悩みはしないが、どうなのかと。自分としてはそうでありたい自分が薬が効いている時の自分と捉えている。
質問者さんの考えに共感できます。以前飲んでいた時は自分の豹変ぶりに驚き、薬が効いている時と切れる時の自分を制御できず、全く別人格のような気がしました。
が、私は自己や時間や社会の連続性を感じない、何とも繋がらない1日を昔から時々感じていたのでそれが薬と関係するかはわかりません。
コンサータ36mgを毎朝服用
自己の連続性を意識的に疑った事はないが、双極のうつ期にコンサータが切れると強めの離人感に襲われる
そうなると自分が何者かということ、何をしているのか、これから何をするのかが一切わからなくなる
その最中は確かに自分という個の認識があやふやになっていると思う
コンサータ内服している方が「自分が自分でなくなるから時々、休薬している」と言っていました。
状況が整理された時のすべき感、と捉えたけれどもっともっと深いものだったのですね。うつ病薬の投薬開始時、同じように感じたけど、安定するにつれて本来の自分を取り戻した感覚になった。
論点は違うかもしれないけど、私もコンサータを半分に減らしてから本来の自分らしさが出てきた気がする。
コンサータを多めに飲んでる時は自分が本当に望んでることが分からない時もあった。
私もよくこの問題について悩んだわ
私は質問者とは逆の考え方だったけど

なんでお金払って脳みそいじって薬の副作用による体調不良にボロボロになりながら健常者が作った常識に合わせて生きていかなきゃいけないんだ。
薬を飲んでいないときの私は誰も認めてくれないのかって。
今の時代なら薬を飲まされかねない、ADHDサバイバー(?)としては、それでも、あのどうしようもない子ども時代の自分こそが、自分らしかったのだと感じています。思春期青年期の様々な選択も、残存した衝動性という特性が、今の場所に導いてくれたのでしょうし。親は、えらく大変だったみたいですが。
自意識の強さによって違和感の強さは変わると思います。
質問者さんの投薬期間がいつからかはわかりませんが、幼少期からであればまた違っていたかも。
義手やメガネとは違って、「意識」の連続性が奪われるのはそうとうな負荷です。
状態としては解離性同一症のようになっていると思います。
自分はわかりやすく離人症状が再発しました。
自分Aが自分A'になります。

寝る前に自分Aを再確認して寝逃げしています。
違和感あるなら合っていないと考える。自分ならやめる
勘違いである可能性もあるかな。
もしかしたら離人感なのかもしれないし、
多幸感の現れ(私はこんなことに気づいた!)かもしれない。
いずれにせよ、人の自己感覚はあまりあてにならないかもしれない。
知り合いにも、自分の血液型がB型じゃなくてA型と知った途端、人格が変わったと言い出した人いたな。
平たく言うと「コンサータ飲んで普段の自分が自分じゃなくなっちゃったみたいそんなのって自己が連続してることになるの?」という内容ですが
そうなることを選択したのはご本人の自由意志であり
そのことを忘れない限り自己の連続性が断たれたことにはあたらないかと。
そんなことはない。
私はどこまであっても私だ。道具を使うなと言われたら、生活ムリ。
当事者の一人として、雑な答え方だけど「どっちも自分」だと思ってる。
僕は「仕事のために服薬をする」と選択したからかもしれないけど。

薬は道具。
目的の無い使用は混乱の元。
感覚過敏は特性としてあったとしても、自由な環境下なら「障害」とは感じない。
目的において障害となる部分が障害。
発達障害は脳の器質異常と捉えた方が分かりやすいと聞いたことがある。
すなわち、産まれながらにして手がない、足がない状態と似ている。
ということは、
薬を服用している状態とは、
すなわち四肢欠損のある方が義手義足を着用しているようなものかなと。
本来の自分はどこまで行っても服用前の自分です。
脳の作りが定型発達の方々と違うので、
視力の悪い人がメガネをかけるように苦手な機能を薬で補う
と自分に言い聞かせています。
私は女性ゆえ精神(性格)がホルモンによっていかに左右されるか毎月痛感しています。コンサータに対しても同じ思いです。自分の信じる「精神」に対処揺らぎを感じます。
「自己の連続性」を求める考えを抑制することで不安から防衛していますね。
薬に限らず怒りといった感情でも心は変わりますし、「自己の連続性」はそもそも幻想だろうと、だったら自己の連続性なんて考えてもムダムダって感じです
そんなこと言い出せば飯食う前と食った後で人格が違うよ。
気力が全く違うんだから。思考も違う。

根本的なことは食事もコンサータもあくまでケミカルを摂取しているという事だ。

人間はケミカルの溶媒だ。

身体に入れた物質で精神が変わる。当たり前じゃないか。誰しもそう思ってんじゃないかね。
連続性があると思うのが普遍的なんだろうか?
コンサータのせいかはわからないが、最近は精神の在り処が脳であると違和感なく思うようになってきた。
いいことか悪いことかなんてどうでもいい。
ここまで劇的な効果を実感できていないので精神の連続性?に疑問を抱くまでには至ってないかな。
これって要は、
「"こころ"は脳にあるのか。それとも別のところにあるのか」
って話だと思うんだけど、これが科学的に明確な答えが出るときが果たしてくるのだろうか…
「あらゆる現象が、所詮は中枢神経の発火に過ぎない」のが
「絶望感」になるんだ
私はそれを面白いことだとか救いだと感じるけどな
私はむしろ「精神とは脳が器質的な反応の結果もたらすもの」であると認識することにより
全ての抑鬱感覚や癇癪はニューロンの反応の結果でしかないというこの感覚を得ることで私自身という行為を行う媒体とその媒体から受け取った情報を処理した結果という感情を乖離させる事はある種の救いになった。
そもそもADHDの皆さんは薬を飲む飲まない以前に今日まで自己の連続性を担保できるような人生ではなかったと思うのだが
中学生の頃の自分と現在の自分が全くの同一人物であるという事実に一切のリアリティを感じないADHD
薬によって連続性を認知できるように改善されたため、連続性の崩壊が気になったのでは?
今しがた思いついた適当な暴論ですけど。
そもそも自己があるというのは幻想で、
肛門から出すまでは自己の一部だったものも排出した瞬間他者になる。

逆に今生きている黒毛和牛もいずれは食べられて血肉になるのだから、あらゆるものは自己であり、同時にどこにも自己はいない。
自他の区別は左右の概念に似て便宜上の座標でしかない。
昔、重いうつ病になり、感情も思考力も著しくダウンした一方で、異常なほど感性が鋭くなったが、自我だけは一貫していたことから、「『本当の自分』はどこにあるのか」という疑問にとらわれたことがあった。
結局「自分とは『流れ』である」(状態としてのみ存在する)という結論に至った。
ためになる文章だった。
例えば血糖値が服薬でコントロールされたからと言って自己の連続性は失われないだろう。
精神科薬ならではの苦悩。
服薬による安定した生活と精神的変容とのジレンマを相談者が受け入れ解決策を見出していくことを祈る。

児童精神科医「コンサータをファーストチョイスにしない理由」

コンサータの自己の連続性の問題、
これがあるので私は成人ADHDにファーストチョイスにはしていない。
これで自死した方もいたと聞く
まずは二次障害に対する対応をしてから
亡き京大名誉教授であられた大東先生がおっしゃっていたが、自我というのは他者があって初めて浮き上がってくるもの

自我(自分のこころ、自分の考えや意思というか)、それは元々周りから多大なる影響を受けていて、
自分一人で独立してコントロールできると思うのは、ただの傲慢にすぎないのだ
そしてそれは流動的でいつも同じ形ではないのではないかと。
ただ、コンサータはあまりにも急激な効き方をするから危険なんだよね。
それこそ1時間くらいで。
それも含めて理想的コンサータ開始年齢は思春期が始まる10歳前と考えている。
効果のある小学校生達の感想

「みんながカンタンに授業を受けてたのが分かってズルい」
「ほんとうの自分になれる魔法のお薬」
「夕方になるとうまくいかなくてイライラする」
「飲んでると(創作活動)できないから夜になってからやる」


内服によって落ち込んだりするのは中学生以降ですね。
かつてSDAが利用され始めた頃、
「重篤な精神病の場合、治療によって現実検討が回復し病識が得られるようになった頃が一番自殺の可能性が高くなる」
と言われたものですが、その事と通底するような気がします。必ず知っておかねばならない貴重な体験の報告ですね
「あらゆる現象が、所詮は中枢神経の発火に過ぎない」ことが絶望感に繋がる迄の間にヒントがあると思います。
中枢神経の発火が、複雑な精神を作り上げる程に素晴らしいものである、
という捉え方を少しずつ身につけると良いのではないかと思います。
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