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発達障害の「生きづらさ」って、

本人が最初から「生きづらい…」とか思ってるわけでなくて、

「皆なんでそんな出来るの!?」
みたいな表面にでる部分の他人との比較が積み重ねられていって
メンタルやばくなって初めて発覚みたいなのが多い気がする。

「見えない障害」だから
本人からも「見えない」。
ほんとうに、そうだと思う。
マジでこれなんよね、何故か自分は出来ないから焦るんよね
そう、本人ですら謎。
だけど、確実に積み上げられていく「自分はどうしてこんなにできないんだろう」という疑問。
自分だけ縛りプレイみたいになる
Mochigai でも気づけないという…
わかるう…
みんななんでそんなできんの?
本能や才能みたいに。
みんなにできてぼくにできないから気づいた。
ほんとですね('ω')自分からも見えない。
だから、うまく説明できない。
他の人の感覚を体感することも出来ないし。
薬を飲んでもそれが定型発達の感覚か?確かめようがない…
ほんこれ、、
就活と部活ちゃんと両立させてる同期、
覚えの早い後輩、
難なく機転を利かす周りの人たちを見るとウルウルせずにはいられない。。。
勇気出して「皆なんでそんな出来るの!?」って言ったら、
「そうでもないよー。みんな そんなに出来てないよー」とか言われて
激しく(?!?!?!)ってなる。
ほんそれです( ;꒳​; )
もう周りの人間がすごすぎて。。
combatadhd 大学とかいくと周りのレベルが上がったのかなとか勘違いしてたんですけど、
まずやることが変わってるんですよね。

複雑な人間関係の中で臨機応変な対応とかマルチタスクとかも増えたりで…
そっからはずっと周りすげえ、でした。
間違いないです。

高校の頃とかも、
「勉強なんてしてないよ〜」って言ってた友人が実は裏では勉強しててテストでいい点取ったり、私と同じペースで遊んでるのに遊んだ後にきちんと塾通ったりして、遊びと勉強をマルチにこなしてたりして…
もうそのときから 定型すげぇぇ って思ってました
たしかに。自分で言い表せないから身体症状に出たり、精神的に追いやられて鬱症状になったり。
逆に、誰しも得意なこと、苦手なことは人それぞれで良いよね、
って世界観で生きらればメンタルには来なくて
「この人はこういう特性」で終わるので、生きづらくはない。
ANNotunzdY2 サービスの充実や多様化の弊害でもあって、
横断的に結びつけたり対人調整する能力やゼネラリストであることが個人にますます求められるようになってしまってるような気がします…しんどい。
mammaminya 以前に、
本人が困っていないのだから、自覚させる必要はないのでは?
と言われたのですが、どうなんでしょう?
K_brass_music 第三者からの視点のつもりはなかったのですが
仮にそうだとして、

「困ってない」のか
「自分が困ってること、もしくは困るような状況にあることに気づけていない」のかは判断が必要だと思います。


客観的に問題なく生きていけそうなら当然必要ないですし
個人的にはそれを発達障害とは言わないと思います。
中3まで字が書けない読めないは困りません。
授業中立ち歩き、何回もトイレや保健室に行っても困りません。
そして近くには試験当日休まずに解答用紙に名前を書けたら合格する高校があります。
そしてその子には稼業がある。

ただし、稼業に必要な各種免許の取得は難しい。

でも本人は取れると思ってる。
今困ってなくてもこの先困ることが予想される。
そして、大人になってから困った人たちが、もっと早くに知ってたら、、、と呟くのを見ていると、どうしたものか…と。
本人がなまじ勉強が出来たりすると、社会に入ってからしか「見えない」ことも多いよね
めっちゃわかる
行きづらいって感じたのはほんとに精神科行く前後位からだった(おおよそ24歳)
聴覚障害ですら聴覚障害だと知ったのは14歳以降だなぁ。
そしてそれがどういうことか理解したのは28歳以降だね。
保育・学校の現場からみると、

どこかで「発見」する機会は以前と比べて増えているそうです。

だから数が増えているのだとか。

しかし本人が気がつかないうちに生きていく上での多方面のアドバイスを得られるかどうかは保護者次第。

認めて活用するか、認めず拒否をするか。
生きづらさを感じている、って
考えてみたら自分発信の言葉というより本で目にしたり、
講演会で聞いて「そうやって表現すればいいんだ」と思ったような気がする。


自分は他の人と何かが違う、普通が出来ていないという事は常々感じていたけれどその理由は分からなかったし、性格が原因だと思っていた。
『誰でも苦手なことあるでしょ』
『誰だって同じだよ』
『普通わかるよね』
そう言われ続けてきた。

どうしてみんなには出来て(わかって)、自分は出来ない(わからない)のか?
発達障害と診断され内服開始から1年。

やっと府に落ちた。
でもまだまだこれから。
わかります。
その過程でどんどん自己肯定感が低くなって二次障害になったり…
せやな…本当に謎だった。
わかった時自分の中にストンと落ちて納得できて逆に理由がわかって対処できるって理解できてホッと安心したもんよ。
僕も自分の特性が「ざっくりわかった」ってところまで実に30年かかったし、
自分に能力があるのか途方もない無能なのかすらずっとわからなかった。
今は「どっちでもあり得る」って思ってる。
自分の能力特性や障害が具体的にどういうものか理解出来て言語化出来るまでのハードルが凄まじいという問題はやはりある。
「発達障害」という概念は理解を助ける補助線にはなるかもしれないけど、所詮はぼんやりしたとても大きい概念に過ぎない。
ADHDの場合、慢性疲労ではないか?って疑い人も相当多いと思う。
能力特性の理解に関しては、実はものすごい苦痛を伴う。

「いや、あの時は出来たから出来たはずだ」みたいなのもあるし
「これが出来ないと認められない」もある。

この苦痛を突き抜けて認めるまでが、多分誰であっても長い。
解像度の高い自己理解は、苦痛を伴う。
「俺は救いのない無能だ」みたいなのは、単なる放棄であって自己理解ではないのだけれど、自分にできないことを一つ一つ認めていく作業よりはこっちの方がずっと苦痛が少ない。
しかし、得る物は何もない。
「自己理解」というのは他者なしにしてあり得ないものだし、
平たく言うと社会にぶつかりまくっていく中で学んでいくしかないことでもある。

究極的に一番大事なことは、
重篤な二次障害を発現させないこと、

生き残ることだと思う。
発達障害というのは僕の抱えた人生の難題であって、
僕のアイデンティティとは何の関わりももたないし、
困ったことがあるなら解決を模索するしかない。
そういうところが一番大事だと思ってる。
こういう風に考えている。

発達障害者にとって一番やばいことは二次障害で重篤な鬱などを患うこと。
これを避けるためには、社会と自己の間に一定の距離がなければいけない、


「これはつまるところ茶番だ」という距離があると、いざという時逃げられる。
「部族」というのもそう。

それは一つのトライブに過ぎず世界の全てじゃない、
そこであなたが否定されたことが、あなたが全てにおいて否定されるべき証左ではない。

実は、社会に「適応」することよりこの距離感の方が僕はずっと大事だと思っている。
理解というのは客観視から始まる、
「みんなの中に溶け込めない、俺はだめなやつだ」というのは自己理解から一番遠い。

そこで、人間の集団におけるある種の構造性を認識し、
その中において自分がどのように上手く行っていないのか考える必要がある、
それを絶対視することなく、同時に否定することなく。
何かを強烈に絶対視して自己を矯正しようとする試みは危ない。
それは時に命に関わる、
そして自己と社会や他者との間に一定の距離がなければ自己分析や自己理解も覚束ない。

そういう意味で、僕は「部族」や「茶番」という言葉を使った。
一番大事だなのは、生きることだからね。
あなたとあなたを取り巻く社会の間にほんの少しの距離があれば、
それは熱の伝導を少しだけ和らげる、
致死的な温度になる前にあなたは「ここから離れよう」と考えることができる。
実は、それが一番大事なんだ。
だからこそヤバくなる前に自覚することが大切で、

南極で駆け回る周りのペンギンに戸惑いながら凍えてる裸の人間がいたとして、
いま自分は「寒くて凍えている」のだと気づいたなら、
服を着ることによって彼は救われるかもしれない。
引用元