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論理的な思考をしているひとほど、
「論理的に正しいことを言えばわかってもらえるはず」
という幻想を抱きがち、

残念ながら、
「お前の意見は正しいが、そんなことはどうでもいい、とにかくお前が嫌いだからとりあえず聞く気はない」
という人間が一定数いることは受け入れておいたほうが良い。
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・説明すればわかってもらえる
・話せばわかりあえる
・ちゃんと教育すればだれでもできるようになる
・一緒に酒を飲めば云々

ぜんぶ幻想です。
これはある。感情というものを考慮することが出来ない合理主義の方ほど陥りやすいよね。
タイミングと伝え方と関係なんやろなあ。
論理的なことでも、タイミングや導入次第で受け入れられ方が全く変わると思います。伝え方も
正にその通りです。
職業柄、論理的思考力が求められるけど、
もっと大事なのは「こいつが言うならやってみるか」と思ってもらえる信頼関係を築けるかどうか。
心の中で、「この馬鹿者がw」と思ってやる。
そして、見てくれている、聞いてくれている人も必ずいる。
結果は思いもよらないところから着いて来ると思う。
後は、正しいことでも2人以上で言わないと聞いてくれないかな。
同意する人がいるんやで、って感じ。
論理的に整合性があることとその人の主張に正当性があることは別の問題だし、
論理的な「正しさ」は倫理的な「正しさ」を担保はしないので、
自分の主張の論理的な正しさを根拠に自説の正しさを言い立てる論者がいるとしたらそのトンチンカンぶりを哀れみたい。
“論理的に正しければいい” と思ってる奴、大体 “他者への態度が正しくない”。
この辺の現象について社会心理学者が比較的論理的かつ平易に説明している「影響力の武器」という本があるので、論理的な人は読むと良いかなと思っている。
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それな…論理は意外と感情に負ける。
殆どの人間はバイトの正論より社長の暴論に従っちゃうし、嫌いな奴の論理的な発言より仲良しな子のよくわからない説を支持する。無職の発言と学者の発言なら無条件に学者のほうを信じてしまう、というのもあるけどこれは偏見ゆえか。権威や感情の前では論理は弱い。
話がそれるかもだが、

いくら電脳化がすすんで、「論理的な思考」が拡張し、正論を完璧に、「計算」したところで、

感情を「理解」できるかは別なんだなあ。
> 論理的に破綻してても圧倒的に支持される意見って有りますね。
例:「かわいいは正義」
もうね、ほんとこれ。状況によっては論理よりも大切なものがあったりする。全てが合理的で正しい必要なんてない。
論理的に正しいことを伝えればいいと思っているらしいカウンセラーが最近いてちと怖い。
人の本質は正しいか否かで動くより、好きか嫌いかで動くほうがパフォーマンスがよい。正しい事をやらなくてはならないからやる、のではなく、正しいことをやる自分が好きだから正しいことをする。これを自覚するのはそれなりに大事なことだと思う。
一定数というより多数だと思ってたほうが良いのかもw><

「合意させる」ための要素としては、単なる一要素に過ぎません。論理。
このツイートを読むときに自分が論理的であるという前提に立っている奴が多くてワロタ
自戒も込めてだけど「論理的な思考をしてる」と考えてる本人が、単に都合のいいことを、適当に材料集めて体系化して自分は正しい、にしてることがほとんどだよねえw

感情優先で道理も何もかも無視な人は確かに手に負えないけど、違った意味でこっちもやっかい。
あと「論理的には正しいが前提となる定義がそもそも間違っている」という論理的思考者も多いので、
「よってお前が何を言っているのか全くわからない」ということもよくある


(論理とは起点となっている定義の上に成り立っているので、起点が間違っていれば論理は全て崩壊しているんですわ)
インターネット世界で"論理的"とされている答えの数々、
大抵の場合論理を成り立たせるために前提とする条件を削ってるので実際のケースにそぐわなくなり、結局使えない扱いされてる印象
みんながバカにしがちなお気持ち問題も現実では身体症状にも繋がったりするので無視はできないのだ
感情は敵味方を分けるセンサーであるという考え方があるそうで、なかなかに興味深いです。お前は嫌いといわれていることはすでに敵だと思われているわけですね。
この「聞く気はない」を何十回、いや何百回経験してきたプロが私です。
昨日アスペルガー症候群とわかりこれまでの人生45年間モヤモヤし続けてきたこと全ての答えが出て、赤ちゃんの気分で朝を迎えました。
このツイートのレスにも「そうだけど論理的に正しい方が正しい」という意見がチラホラあって、論理的に正しい事が通るとは限らないという意見が通るとは限らないという自己言及的なパラドックスが面白い

議論の目的は「合意形成」にある

「論理的に正しいことを言えばわかってもらえるはず」
と信じてる人間が論理的に正しいことを言ってるのをあまり見たことないぞ。
僕は論理学を知らないので、そもそも「論理的に正しい」というのがどういうことなのかよくわからんのだけど、
論理が論理として成立するためには、何かしら非論理的な前提を据えなければならんのではなかろうかとら思ってるし、その前提を共有しない相手を「論理」で説得するのは無理だと思う。
いわゆるツイバトルの多くがそうであるように、
コミュニケーションの齟齬というのは「コミュニケーションの目的についての合意」が形成されていないことに起因するケースが非常に多い。
「議論」とか「対話」というのは、

「あるテーマについて何らかの合意を形成する必要があるという合意」

のもとで進められるときにだけ意味を持つものだけど、ツイバトルでこのような合意が形成されることはまずない。
一方がAについて話しており、
一方がAから派生したaの話をしているという場合、
双方が考えるゴールが違っているので議論にならないし、
そもそも双方基本的には「自分は正しい」という結論以外は想定していないので
コミュニケーション自体が成立していないとも言える。
だから、僕はいつも言ってるんだけど、
ツイバトルの勝敗なんて「相手が嫌な気持ちになったら勝ち」でいいんですよ。
どうせお互い相手の意見を容れて考えを変えるつもりなんか無いんだから。
実際自分の正当性を示すためにはギャラリーの反応が自分に有利に働くように誘導しなければならないわけで、誘導のための方法がロジックによるものかパッションによるものかというのは、正直なところそれほど重要なことだとは思えないんだよな。
ロジックの正当性だって最後は多数決で決まるのだし。
論理ってコミュニケーションのためのツールのひとつでしかないし、論理がコミュニケーションの中心になる場面ってすごく限られてるんですよね。

「言葉」は「行為」である

言葉というのが単なる情報ではなく、社会的な意味を持った「行為」なのだ
という、
ちょっと考えれば誰にでもわかりそうなことが置き去りにされている議論がとても多い。
言葉を受け取るという行為を「言葉に表現された情報を正しく理解する」という意味でしか考えてないからおかしなことになる。
言葉を受け取った人間がその言葉を適切に受け取ることができたか否かは、

情報を正確に読み取ったという点(だけ)ではなく、
その言葉に対して適切な行為(必ずしも言葉を発することだけではない)を返せているかどうか

で判断される。
「おはようございます」という言葉に対して、
「今は午前10時だけどこれは“はやい”時間なんだろうか」などと考える人間を国語力のある人とは普通言わない。
「柿食うや鐘が鳴るなり法隆寺」っていう俳句を読む上で、
そこに表現されている「情報」を理解することにどれくらい意味があるか、という話である。
ある言語行為に対する適切な反応が何であるかを理解し、
相手との望ましい相互関係を構築するような働きかけのできる人間のことを我々はコミュニケーション能力の高い人とみなすのだし、
国語力なるものもコミュニケーション能力の一環として理解すべきですよね。
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