「好き」という”文化”

ゲームでもスポーツでも学習支援でもプログラミングでもなんでもいいんだけど、

「今日、良かったね」という体験の共有がもっともっと必要なのだ。

そのことを僕はここのインタビューで言ったように、「文化的包摂」と呼んでいる。
「好き」を基軸とした療育

・療育にグランドビジョンが欠けている

まず一番大きな課題としては、療育自体にグランドビジョンが欠けているという点です。
特定の問題に対する改善とか、特定の能力の発達を促すノウハウはあっても、全体として子どもが大人になるまでにどうなっていてほしくて、そこに至るようにどう療育なり訓練なりを展開していくのか、その大きなストーリーがないということですね。

(中略)

僕は直接お会いしたことないんですけど、一人「好き」というものを仕事にしたっていうロールモデルになり得る方がいて、岩野響さんって方がいるんですね。


それで、今15歳、もう16歳かもしれないですけど、ASDがあって、不登校のまま中学を卒業されたんだけども、じゃあこれから将来何やっていくかっていう時に、その方は、学校行かない時期に、コーヒーの焙煎を一日何時間もずーっとやっていたと。

(中略)

で、彼のコーヒーを飲んだんですけど、おいしい。

マニアとして言わせていただくと、大坊さんの影響を受けつつ、ちゃんと自分の個性を出しておられる。そう感じるコーヒーなんです。

これがちょっといまいちなコーヒーだなっていう話なんだったら、話題先行なのかなっていう感じもしちゃったけど、でも一流の仕事してるんですよ。

そして15歳だけど普通にお店やってるから、もうこのまま続けていけちゃうわけですよ。

もう仕事として完成されちゃった。

1年前ぐらいまで不登校だったのが。 これ、何なんですか?っていう。

冒頭の将来に向けたグランドビジョンどう描くんだという話と絡めて、分析しなきゃいけないじゃないですか。

なんでそういう人が岩野さん以外にたくさん出てこないんですか?って。

で、僕なりに考える中で一つのキーワードが浮かんできたんですけど、それが文化的包摂(ぶんかてきほうせつ)ということなんですね。

(中略)

そこで岩野さんの話に戻るんですが、彼がコーヒー焙煎人として仕事を成立させている要素はもちろん本人の適性や意欲、親御さんのサポートもあるけど、
もう一つは彼の仕事が、日本で独自に進化してきたコーヒー焙煎の文化にしっかりと根ざしていることにあると思うんです。

つまりコーヒーという飲み物を文化的に高い水準に引き上げた大坊さんという人がいて、その人のコーヒーに対する向き合い方を彼は受け継いでるんですよ。

そういう文化的系譜を受け継いだ結果、高い水準のコーヒーを作り出せるんですよ。

それを僕みたいなマニアが飲んで、うまいなと思う。

あるいは他の人もうまいなと思うわけですよ。

単に突出した能力や技術を持ってるということと、それがちゃんと仕事になるということの違いは、その能力なり技術なりが文化的に包摂されているかどうかだと思うんです。

彼の仕事が成立しているのは、単に本人に適性がありました、周囲の支援がありましたということだけじゃなくて、彼が日本のコーヒー文化という深く広がりのあるものにコネクトできたからだと思うんです。


http://branchkids.jp/articles/28

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最近は随所で「文化的包摂」ということを言ってます。
これは私の造語です。

端的に説明すると、下の画像で平等や公正といった議論が成り立つためには、
箱の高さ以前に「みんなが見たい『野球』という文化的コンテンツ」の存在が前提になる。

そのことが見落とされてませんか、という話です。
ここを踏まえた上で、
教育あるいは療育の目的は、
一つには「好きになれるものに出会える可能性を拡げる」点にある。

このことは言葉のないい自閉症のお子さんを療育する場合、その子の好きなものが極限されていることがお子さんの発達を促す上での大きなハードルになることから、逆説的に説明できる。
何が言いたいかというと、

いかなる権利の行使も支援の提供も、それが本人の「『良い』という感覚」(これを文化と呼んでいます)に結びついていない限りは、幸せにつながらない。

そこを見ずに、先の写真でいえばいたずらに箱を積み上げようとする考え方がありませんか、ということです。
問題は、仮に野球がなくても、

「お前ばかり2つも箱をとってずるい」
「俺は背が小さいんだからその分余計に箱をよこせ」

といった具合に、箱をだれがいくつ取るかの議論自体はできてしまうことです。

恐ろしいのは、そうした議論の果てに箱を一番多くもらったとて、その人の幸せには寄与しないことです。
「文化的包摂」という考え方は、アナログゲーム療育の中で見出したものです。

お子さんがよく話を聞いてルールを理解しようとするのも、
自分の要求を訴えるのも、
負けて悔しい感情をコントロールしようとするのも、

その先にゲームという魅力ある文化的コンテンツがあるからだ、ということ。
「文化的包摂」という語を初めて出したのは
こちらのブランチさんのインタビューですが
「好きを基軸した療育」というテーマからもわかるように、
この話は発達障害のあるお子さんの好きなことをどうつくるか、それをどう活かすか、という問題に関わってきます。
http://branchkids.jp/articles/28
例えば「好きなことがあるからそれを仕事にしよう」というある意味直線的な考え方があったとして、

それならそれで実際仕事をするために好きなことをどれだけ高めなきゃならないのか、
それ以外に何をしなきゃならないのか、
本人ができること以外のことを誰がどれだけ担えるか、


ということがテーマになる
あるいはまた、
自分の好きなことが仕事にならなかったとしたならば

仕事以外の形で続けていけないか、
あるいは似たようなフィールドでなにか別の形にならないか。

そういう模索を周りがどれだけサポートできるか、ということがテーマになる。
こうした教育なり発達支援を考える時、本人の溌剌たる文化への接近意欲、

言い換えれば好きを追求する気持ちが、
成長・発達の原動力として不可欠であることは自明で、

だとしたらそうした意欲をどう生み出すかが教育のスタート地点になると考えられる。
先だって、すごろくや代表の丸田さんと対談したときのこと。

「ゲームは五教科成績を上げるか」という問いに
丸田さんは「ゲームがしたいなら五教科くらいできるようになれ」とお答えになった。

質問内容と答えが主客転倒しているわけだが、この転倒が近頃非常に重要にみえてきた。
自分が身につけた方法をただ問題に適用しているだけの人と、
問題に合わせた方法(自分が身につけているものもそうでないものも含めて)を常に模索している人とでは、
同じ仕事でも数年もすれば圧倒的な実力差がついてしまう。
最初の野球の話に戻ると、
野球観戦を楽しむためには野球のルールがわかり、
得点やカウントがわかることが必須だ。

つまり言葉や数の理解が必要なのだ。

それが理解できなければ野球に興味を持つことはできないだろう。
ここに教育もしくは療育の存在意義の一側面がある
補足

療育とは「文化的影響へのバイパス」を作ること

私達は「子どもの発達」というとき、暗に自然発生的なプロセスを想定しがちです。
つまり「芽が出て膨らんで、花が咲いて」と言った感じで、時期が来れば勝手に成長していくものだと思っている。
でも、ヴィゴツキーは、
子育てはそればかりじゃない、
特に学齢期以降の高次精神機能の獲得にあたっては、
教授と協同学習が欠かせないと強調するんですね。

自然発生的に出てくる成長と外部から得た経験や知識が相互に交渉しながらお互いを高めあっていくモデルを提唱しました。
ヴィゴツキーが子どもの発達を促す上での教授や協同学習の必要性を認識するのは、障害児教育を通じてなんです。

たとえば、視覚障害の子でも発達のプロセス自体は健常の子と変わらない。

だけど、文字や絵が見えないわけだから社会的・文化的な影響は受けにくくなる。

その結果が発達の遅れに繋ると。
だから障害児教育の課題は、

普通なら障害故に受け取れない社会的・文化的な影響を、
どうやって受けさせてあげるか、
そのための「パイパス」をどう用意するのか、

という点にあるとヴィゴツキーは言います。
現代のインクルーシブ教育にも繋る重要な見方だと思います。
今話し合われているインクルーシブ教育は、
障害児が通常教室でストレスなく過ごすことがゴールになってしまっていて、
それがお子さんの成長にどう寄与するかという観点からの議論が希薄だと思います。
それは先にヴィゴツキーが提唱したような発達観を踏まえていないからですね。
先のABAの「目的」がないというお話と共通しますが、
インクルーシブ教育にしてもそれがお子さんの発達にどう寄与するかという視点がないから、
制度設計者や保護者の充分な支持を得られない。

結果、通常学級で障害児を受け入れるための学級運営ノウハウを語るだけの低次の段階で停滞している。
しかし、お子さんの発達には社会的・文化的影響が欠かせないのだということ。

それは教授や協同学習によって実現するのだという認識に立てば、
それをどう提供するのかだけが問題で、
どこでそれを提供するのかは問題にはなりません。
通常級に要支援の子を入れ込む方法を探るインクルーシブではなく、
通常級をでっかい支援級に出来ないのか。
これもそのとおりで、なので本当にインクルーシブな教育を実現しようとすれば学級編制と指導内容自体に手を加えなければいけない。
と、このように問題意識は持つけれども、
僕自身がこうした通常学級変革のプレイヤーとなって何かをする道筋は見えておらず。

なので今は3rdプレイスである放デイ、学童、通級指導教室から変えていければと思っている。
引用元
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