人類進化

人間は基本的に「男」のことが嫌いである

「女性は全体的にほんのりと男性のことが嫌い」
「なぜなら日常的に性的な『嫌な行為』を多かれ少なかれ経験しているから」

というツイートが数年おきくらいに回ってくるけれど、これは半分正しい。

が、まだちょっと浅い。

より正確に言うと、

男でもデフォルトでは見ず知らずの男を警戒する傾向がある。
「怒った人の顔を思い浮かべて」と問うと、大抵のヒトはなぜか男の顔を思い浮かべる…という実験がある。

これ以外にも、様々な研究から

「見ず知らずの男には警戒心を抱く傾向がある」
というのが私たちのヒトのデフォルト設定らしいと分かっている。


すごく面白いよね。
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ヒトが「見ず知らずの男」に警戒心を抱くのは、私たちの心が進化した数万~数十万年前のアフリカのサバンナでは、それが危険な存在だったからだ。

相手は飢えているかもしれないし、
こちらを縄張りから追い出そうとしているかもしれない。

あなたが女性なら、子供を殺されてレイプされるかもしれない。
その日初めて会った男と握手を交わして一緒に仕事を始められるのは、
じつはすごい文明的な行動だし、人類が進歩した証なのだ。


ホモ・サピエンスにはざっくり20万年の歴史があり、
現在と同様の認知能力を得たのは3~7万年前だと言われている。

私たちはここまで来た。

そして、私たちはもっと進歩できる。
接客業やサークルの売り子に女性が良いというのはこういうことか。

生得的なもの=本能を否定する「空白の石板」仮説

「女性が全体的にほんのりと男性が嫌い」
な理由は、経験によるものだけではない。

もちろん経験も無視できない影響を与えているし、それを否定するつもりもない。

そこに「ヒトの生まれ持った性質(human nature)」への理解が加われば、
よりよい世の中へと、より素早くたどり着けるはずだ。
紫式部は偉大な心理学者だ。シェイクスピアもペローもディケンズもユーゴーもそうだ。

現代に至るまで、物語作家は「ヒトの生まれ持った感情」を熟知し、それを使いこなすことでドラマを組み立ててきた。

ところが20世紀の社会学者に言わせると、彼らは偏見を助長してきた悪者ということになってしまう。
なぜなら20世紀の社会学では

「ヒトには生まれ持った感情や行動などない」
「すべての感情や行動は後天的に学習したものである」

というドグマが前提になっていたからだ。

このような人間観を「空白の石板」仮説と呼ぶ。
これは、すごく雑な言い方をすればジョン・ロックの功罪だ。
ロックは王権神授説を否定し人民主権を説いた偉大な哲学者だ。

が、論理的な思考力には優れるものの、科学的な視点を持つのは苦手だったようだ。

「ヒトの感情や行動はすべて経験によるもので、生まれつきのものは一切ない」

という、観察できる事実からは明らかに反した考えを世に広めてしまった。
だぶん20世紀の社会学者たちは、怖かったのだ。

ヒトの心に「悪しきもの」「忌まわしいもの」が生まれながらに宿っていると認めてしまうことが、恐ろしかったのだ。

21世紀になった今でも、多くの社会学者・人文学者が、同じ恐怖から逃れられずにいる。

空白の石板を捨て「本能」を認めよう

「ヒトには生まれつきの感情も行動もない」
「すべては後天的に学習したものである」

という人間観は、進化心理学者からは「標準的社会科学モデル」と名づけられて激しく批判されている。

よりイメージしやすい「空白の石版(タブラ・ラサ)」仮説という呼び名もある。
ヒトの心は白紙だという仮説だ。
「空白の石版」仮説は、端的に言って非科学的だ。
客観的に観察できる事実とは一致しないからだ。


ベテランの保育士なら誰でも、ヒトには生まれつきの個性があることを知っている。
生まれたての赤ん坊でさえ、よく泣く子とそうでない子がいる。

空白の石版は、研究室に閉じこもった学者の机上の空論だ。
人文社会学を学んだ人は「ヒトに本能がある」と聞くだけで眉を顰める。
なぜなら「本能」という言葉には、変更不可能で決定論的な響きがあるからだ。

しかし、ヒトは本能的な行動を、
文化によって変えることもできる。

でなければ、満員電車で通勤することも、1日8時間を机の前で過ごすこともできない。
重要なのは、「空白の石版」仮説を捨てることだ。
ヒトには本能があると認めたうえで、
それを文化によって変えられるというヒトの驚異的な能力に目を向けることだ。


生物学は本能までは解明できる。
しかし文化を解明するのは、本来、人文社会学が得意とする分野であるはずだ。
たとえば女は全体的にほんのりと男が嫌いなのは、
日常的にセクハラを多かれ少なかれ経験しているからという「だけ」が原因だと考えてしまう。

これはよくない。

なぜなら男側から「そんなの女が我慢すればいいだけじゃん」という反論を許してしまうからだ。
性別を問わず、セクハラは許せるものではない。
男女を問わず、ヒトには「見知らぬ男に警戒心を抱く」という傾向がある。
この生まれつきの傾向を認めれば、話は変わる。


男は見知らぬ相手に対して警戒心を解く方法を考えなければならず、
そのためには「女にセクハラを働くやつ」を撲滅しなければならない。

セクハラマンが男女共通の敵になるのだ。
この宇宙に善悪はない。
それを決めているのは人間だ。
宇宙の法則である以上、生物の進化にも善悪はない。

そして、進化の過程で私たちが発達させた脳と、そこに宿った心にも善悪はない。

私たちは社会契約に基づいて、それを善悪に振り分けているだけだ。
ヒトの心に善があるように、そこには悪もある。

「生得的であること」は免罪符にはならない

大切なことは「である」ことと「あるべき」ことを混同しないことだ。
ヒトの心には、生まれ持った悪が「ある」
けれど、だからといって悪である「べき」とは言えない


伝説によれば、サッカーは敵将の首を蹴って遊んだことで生まれたスポーツ「である」。
でも、生首を蹴る「べき」とは言えない。
コンピューターは弾道ミサイルの起動を計算するために発達したもの「である」。
だからと言って弾道ミサイルを発射す「べき」とは言えない。

ヒトの心がどんな過程を経て進化してきたものであろうと、
その過去を理由に「ヒトはこうあるべき」とは言えない。

生得的であることは免罪符にはならないのだ。
したがって、竹内久美子氏の

「チンパンジーでもセクハラをする。セクハラは男の生まれ持った感情だ(だから許される」

という主張は、噴飯もののトンデモである。

生まれ持った欲望であることと
それが社会的に許されるかどうかには何一つ関係がない。


問題のカテゴリーがまったく違う。

お話にならない。
女には生まれつき、カネや地位のある男を好む傾向がある。
だからといって、カネや地位ばかりを見て男を対等な個人として見なさないのは褒められた行為ではない。

男には生まれつき、女よりも乱婚的な性的欲望がある。
だからといって、セクハラが許されるわけがない。

当たり前の話だ。アホか。
あまり汚い言葉は使いたくないけれど、
これが「当たり前である」ことが
――つまり、問題のカテゴリーが違うということが――
理解できないとしたら、その人はバカである。

知能指数がどんなに高かろうと、
どれほど専門的知識を持っていようと、
論理的思考能力に致命的な欠陥があるバカだ。
「無防備な女性は痴漢に遭いやすい」ということから
「無防備な女性は痴漢に遭ってもしかたない」とは言えないし、言ってはいけないが、
後者の立場から前者の事実までをも否定してしまうのは間違いってのと似てますね。
おっしゃる通りやなー

先天的な人間の性質を無視したらあかん

「生まれつきのもの」を否定する表現規制の誤り

「ヒトには生まれつきの感情も行動もない」
「すべては後天的に学習したものである」

という発想がマズいのは、

「えっちなものをすべて規制すれば男の性欲を無くせる」
「暴力的なコンテンツをなくせば殺人事件を無くせる」


といった誤った結論になってしまうこと。
前提が間違っているから、答えも間違う。
フィクションに人間の行動を変える力はあるか?
私は「ある」と断言したい。


進化心理学者ピンカーによれば、ヨーロッパでは15世紀半ばに活版印刷が発明されて以来、殺人件数が一貫して減少してきた。

読書によって他人の痛みを理解できるようになったからではないかとピンカーは指摘している。ならば、
性的なコンテンツや暴力的なコンテンツを規制すべきだと言えるだろうか?
もちろん、言えない。


科学的に効果が検証されていないからだ。

性的なコンテンツを見せなければヒトの性欲を抑えられるのか。
暴力的なコンテンツを見せなければヒトの暴力性を緩和できるのか。

私は、まったくそうは思えない。
14世紀、自国にペストの脅威が迫っていることに気づいたイングランド国王は、
大司教に泣きついた。
祈祷によって病魔を退けようとしたのだ。

要するに表現規制とは、お祈りだけで病気を治そうとするようなものである。

手洗い・うがいも試していないのに。
表現規制は「武器軟膏」に似ている。

これは近世ヨーロッパで存在した治療法で、武器による傷を「武器に軟膏を塗ることで直す」という方法だった。

驚くべきことに、この治療法は当時の標準的な医療行為よりも効果があった。
武器軟膏で傷を治そうとした兵士は、そうでない兵士よりも生存率が高かった。
武器軟膏では、傷口には何の治療行為もしない。
それではなぜ効果があったかというと、当時の標準的な医療行為のほうが致命的だったからだ。

動物のフンを混ぜた没薬を傷口にすり込んだりするのに比べれば、
武器軟膏を使って(つまりは何もせずに)自然の治癒力に頼るほうが生存率は高かったのだ。
性的コンテンツや暴力的コンテンツを隠すことで、ヒトの性欲や暴力性が低くなるかもしれない。
効果がほとんど検証されていないのだから、可能性はある。

けれど、それは武器軟膏に頼るのと同じだ。
もしかしたら、もっと効果的な「治療法」があるかもしれないのに、それを発見する道を閉ざしてしまう。
フィクションには、ヒトの行動を変える力がある。
生きたまま腸を引きずり出すような残虐刑が廃止され、
殺人発生率が低下したのは、読書の効果だとピンカーは言う。

フィクションを上手く使いこなせば、私たちはよりよい社会を実現できる。
それを切断処理するだけでは到達できない社会を創り出せる。
必要なことは2つ。
「ヒトの心のメカニズムの解明」と「科学的な効果検証」である。

人類は免疫のメカニズムが理解できたから、ワクチンを使いこなせるようになった。
科学的な実験手法を覚えたから、新薬に効果があるのかどうかを検証できるようになった。
同じことを、フィクションに対してやればいい。
生物学者ドブジャンスキーは
「あらゆる生物学的知識は、進化の視点がなければ意味をなさない」と述べている。

そしてヒトの脳と心も、生物学的な現象である。

心理学は長い遠回りをして、ようやく進化論を取り入れるようになった。
ヒトの心のメカニズムの解明は、やっと入り口に立ったところだ。
フィクションがヒトの心に与える影響は、まだほとんど分かっていない。

けれど、

「ただ隠せばいいというものではない」
「それは武器軟膏と同じだ」


と分かる程度には、ヒトの心についての理解は進んだ。

私たちは最初の一歩を踏み出したところだ。
この先の100年が楽しみである。
引用元
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