130628_syanairen
仏教の勉強などをしたせいか、

「愛とは相手のありのままを受け入れること」

的な言説に対しては、

「でもそうやって条件や属性で判断することなく他者を受容できる境地に至ったならば、もう『特定の誰か』を選ぶ必要もなくなってしまうよね?」

という突っ込みをどうしても入れたくなってしまう。

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そう 
特定の誰かを選ぶ必要がない

誰も区別つかなくなるよね

なんか 一周回って無に帰るような理屈

「博愛・無償愛とは、自己完結した自己愛のことである」

誰でも愛せると誰をも愛するはまた別の話な気がするな

そもそも愛とは対象を指定するものか?という話になりますね。

更に突き詰めると愛など言う幻想は世に存在しないという極致に到達して、それすらもおめでとうございます、小悟されましたねとなるのですね

縁で良いんじゃないかと思ったけれど。

好みの相手に巡り合うのは縁なのでは……?

であるから
『 選ぶ』のではなくご縁のあった目の前のしとで満足しましょうね、
ということなのかも

まさしく、「特定の誰か」を選ぶ必要が無くて、縁があってたまたま出会った人を大切にってことだと私は想ってる。
まぁ悟っても好き嫌いはなくならないって聞いたことあるけど私は保留してる。

これはですね
その人を愛する前は条件とか基準とかに縛られてたけど、
愛したら汝は悟りの境地に達しありのままを愛せ!
その愛を貫き通せってことなんですよ。

と言いたいところですが、
本当は恋愛は顔だ!顔を好きになったら他のことを全部許せ!ってことです。笑

すでにレスに指摘があるけれども、
その「無我」の境地に至ると自分が関係性の中に生きているという「縁起」も自覚することになるので
「一億人から君~を見~つけたよ♪」みたいなのも仏教的にはあり得ることになる、たぶん。

これに本当に仏教的に突っ込ませてもらうとしたら「その特定の誰かを選ぶ必要すらないのに選んだ人こそ最愛の人」という話だと思う

意味がないからこそ、特定の誰かを選ぶ意味をプレゼントしてあげればいいのかなぁと

愛は尊重に近い。

ありのままを受け入れる愛というのは、他の人と違うかけがえのない人格を受け入れるという意味なので、特定の誰かでなければならない。

偶然の出会いでも、その人を知り、関わってゆくと今度は責任が出てくる。

何でも受け入れるなら誰でもいいというのは差異性の軽視で愛の誤解だろう。

確実に境地に至れないからセーフ。

引用元
仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か
魚川 祐司
新潮社
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