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悪意を持って正義をねじ伏せに来る敵より

ちょっとコンビニ行って来るぐらいの何気なさで正義を踏みにじっておき、
怒られると
「何怒ってんだよwww」
「そんな事したっけ? 気にすんなよ!」
と軽く流す民衆


の方が遥かにリアリティと邪悪を感じるけど、
それを小説の枠に組み込んで書くのは難しい

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第一に敵があまりに生々しい。

どういう社会階層・グループに属し生きているかにもよるが、
そういう人は大変多く、読んでいて現実を思い出し辛くなってしまう。

第二に倒せる類の敵ではない。

反撃すると「何もしてないのに攻撃してきた」と憤慨し始めるし、
倒しても反省しないし、対話もできない。

「対話できない」
「倒しても反省しない」
「勝利から何も得られない」
「無限湧きする」

が特徴の、あまりに強大で戦闘開始前から終了後まで一貫して虚無感しか生まない敵なのだ。

対話を試みると、こちらの台詞に被せて

「あーはいはい分かったから黙れ(分かってない)」

とか

「うっざ」
「お前の言う事なんて誰も聞いてないから」
「親切で言うけど馬鹿丸出しだから二度と喋らない方がいい」

とか。

もし長い闘いの末に勝利したり対話に成功したりしても、
長い闘いの間に99.9%類似の敵が数倍発生してる。
倒しても倒してもキリがない。
一気に倒せない。
戦う行為そのものを嘲笑ってくる。

負けても勝っても嗤い、そのうち飽きて別の人を気軽になぶり始める。

そして奮闘を続ける主人公を
「お前まだそんな事にこだわってんの?」と哀れみはじめたり、
「誰だっけ?」と忘れていたり。

好意の反対は悪意ではなく無関心、という言葉があるけど、

悪意ある敵と戦うより
無関心の敵と戦う方が遥かに厳しい。

創作物だと、そういう無関心系の敵はいるにはいる。
が、大抵は途中で主人公に何かしらの興味を抱く。
暴力や言葉による対話が発生する。
主人公の言葉を受け、敵なりの言葉を返す。

が、真の無関心の敵は最初から最後まで徹底して無関心。

主人公に興味がない。

何気なく踏みつけて、そのまま通り過ぎる。

そんな敵との戦いを、限りなく独り相撲に近い戦いを、小説として書ける気がしない。

書けたら絶対に心に刺さる小説になると思うんだけど、今の私の小説ヂカラでは読んでてひたすら苦痛しかない不愉快な小説にしかならない

「十万人の無関心な敵がいるが、一人だけ改心させられた。一人が二人になり、二人が四人になっていけば、いずれ世界は変えられる」ENDがベッタベタなオチだけど、
現実的に考えて現実的じゃないよね。

改心した味方が心折れたりまた敵に回ったりする。

勝てません。世界は変わりません。

もっとメルヘンだと

「主人公の熱い奮闘が民衆の心を動かした。世界は急には変わらないけど、何気ない罵倒を浴びせる前にふと考え、やめる人が少しだけ増えた」END。

いやー、ないっす。

一人の行動が世界を変えるなんてないよ? 
数日経てば何事も無かったかのように元通りさ! 
無駄!

「世界・社会は何をしても変えられない」
「自分は取るに足りない雑魚だ」
が骨の髄まで叩き込まれた悲しい考え方なのか。

「世界を変えたつもりになっているが実は何も変えられていないピエロ」
よりはマシなのか。

考えても考えてもわからんね。

ドラマや映画に登場するような「わかりやすい悪」など現実にはそうはおらず、
政治的な災厄の多くは庶民のなにげない無邪気な感覚が引き起こしてきた可能性については何度も指摘されてきたことだろうけど。 

「センゴク」の、伊勢長島編の時がそんな感じだったかな

宇宙世紀ガンダムがそんな話かもしれませんね。
主人公たちがどれだけ人の可能性を、わかり会うことの意味を見いだしても、社会は何も変わりはしない。
そんな社会にシャアやフロンタルやゾルタンは絶望したわけですし。
だからこそ、アムロの最後やバナージの「それでも」に意味があるわけですが。

『パンプキン・シザーズ』という漫画を思い出した。←世界は無自覚な悪意で満たされ、無自覚な悪意は、時として善意の仮面で他人を殺す!って世界観の中でもがく主人公達の話。

ただ、
何百万という「無関心に挑み敗北した人」の中に
極めて稀に勝つ人がいる。

だから、私は宗教が嫌いだけど、マザー・テレサは心の底から尊敬してる。

「世界平和のために何ができるかですって? 家へ帰って、あなたの家族を愛しなさい」

って言葉が好きでな。

こんなミクロでマクロな真理ある?

引用元
なろう:https://mypage.syosetu.com/mypage/top/userid/59791/
aa ガッチャマンクラウズはここらへんやろうとしていたように思える