フェミって、
行動の原因を個人の心のあり方に求める「心でっかち」(山岸俊男氏の概念)
が多いと思う。
だから「男性が意識を変えなければ痴漢がなくならない」とか「小児性愛がなくならないと女児への性暴力がなくならない」とか「性暴力表現がなくならないと性暴力がなくならない」と平気で考える。
行動の原因を個人の心のあり方に求める「心でっかち」(山岸俊男氏の概念)
が多いと思う。
だから「男性が意識を変えなければ痴漢がなくならない」とか「小児性愛がなくならないと女児への性暴力がなくならない」とか「性暴力表現がなくならないと性暴力がなくならない」と平気で考える。
フェミは
「心に考えたこと」(原因)→「性暴力」(結果)という因果関係を強く信じているように感じる。
だから「心の考え」を改善すれば世の中が変わると単純に信じられるし、性暴力表現に関して「心で考えさせない」ようにするために、世の中から消そうとする運動に熱心になる。
「心に考えたこと」(原因)→「性暴力」(結果)という因果関係を強く信じているように感じる。
だから「心の考え」を改善すれば世の中が変わると単純に信じられるし、性暴力表現に関して「心で考えさせない」ようにするために、世の中から消そうとする運動に熱心になる。
たぶんフェミは精神論者だから、性暴力を引き起こす因果関係を環境要因も含めて複合的に考えるよりも、性暴力を引き起こす原因は男性の心にあるのだと限定的に捉え、それを叩きたいのだと思う。
フェミ云々はおいておいて
”行動の原因を個人の心のあり方に求める「心でっかち」(山岸俊男氏の概念)”
というのは興味深い考え方だな。
”行動の原因を個人の心のあり方に求める「心でっかち」(山岸俊男氏の概念)”
というのは興味深い考え方だな。
自己責任論も「心でっかち」で説明つく。
そして、何をもって心のあり方が100%正しくなっているかが判断できないので無限に心のあり方のせいにされる。
そして、何をもって心のあり方が100%正しくなっているかが判断できないので無限に心のあり方のせいにされる。
兎角共感を渇望し他者にも己の「お気持ち」への理解を強要する「心でっかち」よりは、
酷薄な様でも論理として整合性が有りかつ一貫している「頭でっかち」の方が基準が都合良くブレない点で未だマシなんじゃないかな…
酷薄な様でも論理として整合性が有りかつ一貫している「頭でっかち」の方が基準が都合良くブレない点で未だマシなんじゃないかな…
誰かがフェミのことを「起こってしまったことの原因は相手の内面にあると思い過ぎてしまう心でっかち」と表現してたけど、
日本人全体が「心でっかち」な所があるんじゃないかと思うんだよね。
人手不足なのは「やる気のない」若者が悪いなんてまさに「相手の内面」の問題だと思い過ぎているケースだし。
日本人全体が「心でっかち」な所があるんじゃないかと思うんだよね。
人手不足なのは「やる気のない」若者が悪いなんてまさに「相手の内面」の問題だと思い過ぎているケースだし。
「心でっかち」の何がが問題かというと、
原因が心のあり方にあるとの客観的な証拠がないくせに、
「原因は心のあり方でない!」と反証することが極めて困難なこと、だと思うよ。
原因が心のあり方にあるとの客観的な証拠がないくせに、
「原因は心のあり方でない!」と反証することが極めて困難なこと、だと思うよ。
心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)
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コメント一覧
コメント一覧 (28)
女性の股から産まれてきたくせに
ああいうのと同類にされたくないわ
俺精子だった頃の記憶ないわ
どちらも心のあり方を重視している。目的は違うけど。
前者は性からの解放のため、後者は「清く正しい心」を求めるため。
前者は伝統的価値観からの断絶を求めるが、後者は連続性を求める。全然違うように見える。
しかし両者とも批判対象となる人間の内面の意識にその批判の焦点を集中させているので主張の構成が似てしまう。
そしてどちらも心のあり方の多様性に対する消極性を共有している。
何かしらの形で内心の自由への干渉を行っている。
両者が主張する、「あるべき心のあり方」が根気強い話し合いによる合意(少なくとも緩い納得)によってもたらされるもので、そうあるべきと言うのであれば、内心の自由への干渉という批判は弱まるのだろうが、残念ながら両者ともそのような姿勢はない…?
そういう仕様なのかもしれんが…
そもそも問題解決にならない
風俗があるのに性犯罪はなぜ起こるとか
治安がいいのは風俗があるからだとか
いくらでも言えるし
食べ物、言語、過去、社会、人間関係etc…。
心でっかちとかまたしょーもない言葉作り出しやがって
「せや!社会をよくするためには人の心をよくすればええやん!」つって。
むかしだからナイスアイディアと褒め称えられていたという気がせんでもない。
原因から結果がストレートに出るという因果律思考、そういう世界認知
問題なのは自分の自閉的な視点が捉える人の気持ちこそが真実であるという、偏見の決め付け
そして、その人の気持ちとは、純粋に結果から逆算して導き出される
その「本当の気持ち」とは故意責任ではなく、その逆の厳格責任であり、他罰を正当化する方便としてのみ他人の気持ちを決め付けるのだ
アスペの自閉的な視点は不快感だけが真実の世界であり、不快感から逆算して他人の悪意をこじ付ける
アスペには頭と心が自他でひっくり返っているように見えるが、実際は視点が一方的だから自分は理由があり他人には理由が無いという公理に突き進まざるを得ないだけなの
アンチフェミというアスペによる同族叩き
いじめはいじめをする奴が消えれば殲滅するかといえばそうでもなくて、その後ろに貧困やら風潮やらあって起きる可能性もあるわけで
そういうのを解決していかないといけない、みたいな。
この場合女性という被害を受けやすい性で、そういう被害を受けてる側って、「被害者」の体を崩せないから「なんでこっち(被害者)が配慮しなくちゃならないの!」ってなるんだと思うわ。
でないといじめとかの話同様、被害者であるという認識は一旦外さなくちゃいけないと思う。寄り添うところは寄り添っていいけど、そうでないと余計に理想からは遠のくと思う。
性欲がなかったら理解しにくい女になんて近づかないし