1872年 東京
彡(゚)(゚)「この度ロシア皇太子が訪日することになったんや」
彡(゚)(゚)「とはいえ明治になってたかだか5年。浪人や浮浪者が多くて何をするか分かったもんやない。
斬り付けられでもしたら日本はお仕舞やで。それにそういう連中を見せたら国の体面にも関わるし。」
彡(゚)(゚)「せや、収容所を作って隔離したろ」
(・ω・`)「というわけで収容してみたんだよ。色々調べてみよう」
(・ω・`)「えーっと、120人中68人の言動がおかしいね。この人たちは病人だから別の施設に移そう。でも土地がないね」
彡(゚)(゚)「土地なら上野の恩賜公園を使ってや。名前は東京府癲狂院やで」
やっと本格的に日本が登場してきた
東京府癲狂院って名前がもうかっこいい
こんな調子で東京府癲狂院は誕生した、その後巣鴨に一度引っ越し、次いで松沢村(現在の世田谷区松沢)に引っ越した。
1901年
三代目病院長 呉秀三
(*^○^*)「病院を改革するよ!頭がおかしいからと言って人間扱いしないのは許されないんだ!」
呉院長の方針は次の通り。
・拘束具の使用禁止。それらをすべて焼却処分する。*現在は、やむを得ない場合において身体拘束が使用されている。
・患者の室外運動の自由化 - 看護職員や家族が付き添い、病院構内での運動を自由化。
・旧来の看護観を持つ看護長などリーダー格の職員を更迭し、看護職員の人員と意識の刷新を図る。
・新しい看護長には医科大学附属病院で看護学講習を聴講させ、看護技術の向上を図る。
・患者処遇の改善と治療方針の刷新。
・作業療法の積極的活用。
・病棟の増改築の実行。
彡(゚)(゚)「今では当たり前になっていることも多いが、時代の背景を考えると相当に進歩的だったんやな。」
彡(゚)(゚)「何せ当時は私宅監置の時代や。後で触れるけどな」
彡(゚)(゚)「実際に都立松沢には呉院長の銅像と碑文があって、こう書かれとる。」
(*^○^*)「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし
(*^○^*)「(我が国10何万人の精神障害者は疾患にかかるという不幸の他に、この国に生まれたという不幸を重ねているものと言えるのである)」
彡(゚)(゚)「この文章は1919年当時の実態を調べた論文の中から引用されとる。」
彡(゚)(゚)「こんな書かれ方をする当時の社会と比較すると、都立松沢は相当恵まれとったんやな。」
都立松沢ってそんな凄いとこなん?
東京に引っ越したらそこの外来で見てもらおうかな
>>49
彡(゚)(゚)「知らん精神科医はおらん」
彡(゚)(゚)「都立やけど最先端治療もおこなっとるで」
私宅監置→精神病者監護法(1900年)
精神病者監護法は治療については記載なし、監護義務者が医師の診断書をすえて警察に届け出れば、座敷牢に閉じ込められる法律。
入院患者数は限られ、入院すること自体困難
治すというよりは社会的な事情で排除しようって時代なんやろ?
エピソード2 相馬事件
彡(゚)(゚)「この事件は端的に言えば「お家騒動」や」
彡(゚)(゚)「「やけど、お家騒動に病気の疑いと当時の制度の不備、マスコミの煽りが絡んで大騒動になったんや」
彡(゚)(゚)「この1件で法律が作られた程や」
1879年
彡(゚)(゚)「ワイは相馬誠胤、陸奥中村藩の末代(第13代)藩主やった。今は東京府で華族やっとる。」
彡(-)(-)「やけど最近調子が悪いんで通院しとるんや」
その人名なんて読むんですか(小声)
>>61
そうまともたね
ある日
J( 'ー`)し「最近夫の調子がおかしい。自宅に閉じ込めてしまおう。」
(*^○^*)「僕は錦織 剛清。主君に仕えていたんだ!」
(*^○^*)「主君が病気なんて嘘っぱちなんだ!どうせ金目当ての親族が嘘っぱちを言っているだけなんだ!」
(*^○^*)「訴えてやるんだ!!」
???「コレをネタにすれば新聞が売れる!」
単なるお家騒動はマスコミの煽りもあってヒートアップしてしまった。
そんな中で裁判では診察を行うことになった。
裁判所
('ω`)「診察してはっきりさせよう。偉い先生、お願いします」
診察後…
( ・`ω・´)「これは精神病だ。統合失調症だろう」
(★…●)「これは精神病だが、統合失調症ではなさそうだ」
(●゚◇゚●)「これは精神病じゃない」
医師の出した診察がばらばらであり、「病気じゃない」と診察した医師すらいた。
診断が不明確になっただけでお家騒動は混迷の度合いを深めていく。
1887年
(*^○^*)「らちが明かないんだ!身柄を奪い返すんだ!」
(*^○^*)「何をするんだ!主君を助けただけなんだ!」
錦織 剛清は東京府癲狂院に侵入し、身柄を奪うことに成功するも1週間で逮捕された。
1892年
相馬誠胤はこの世を去った。しかし納得しない人物がいた。
(*^○^*)「これはきっと毒殺なんだ!墓を掘り起こして調べるんだ!!」
錦織 剛清は墓を暴いて調べたが、結局のところ毒殺を裏付ける証拠はなかった。
彡(゚)(゚)「ポイントは以下の通りや
・制度がなかった。
彡(゚)(゚)「上の解説で「私宅監置」と書いとるが、当時はそんな言葉すらなかったんや。」
彡(゚)(゚)「だからその時その時で対応が違ってしまったんや。いかんでしょ。」
というわけで法律を作ったんや。
1899年精神病者監護法制定
( ・`ω・´)「この法律は、精神障害者の扱いについて手続きを定める方法だ。詳しくは以下の通りだ」
( ・`ω・´)「①監護者を定める。ようするに身元引受人だ」
( ・`ω・´)「②監置することが出来るのは監護者のみ、かつ、場所は限定だ。勿論届け出も必要だ」
( ・`ω・´)「③行政は監護者を監督する権利がある。好き放題はダメだ」
( ・`ω・´)「④お金は監護者が払うこと」
( ・`ω・´)「これで適当な理由をつけて閉じ込めることは防止できるな」
しかし現実はそうではなかった。
特に監置の場所に「私宅」を定めたことが問題になった。自宅は目が届きにくいからである。
社会の変化・精神医学の進歩により精神科の患者が増えた。
しかし当時の日本には患者を受け入れるだけのリソースが不足していた。
1916年精神病院法によって「精神病院を作る」ことが決まったものの、金が無いので結局私宅監置は続いた。
最終的には1950年まで続くことになる。
彡(゚)(゚)「ポイントや」
・制度の確立
彡(゚)(゚)「色々な問題があれど、制度を定めたことの意義は決して小さくないんや」
彡(゚)(゚)「少なくとも制度があることで助かる可能性が高まるからな」
彡(゚)(゚)「制度のはざまに落ちた患者は存在しないも同然やで」
・リソースの不足
彡(゚)(゚)「当時の日本は貧乏やったからな。人物金が不足しとったで」
彡(゚)(゚)「受け入れる病院がなかったんや。だから私宅監置せざるをえんかったんや」
彡(゚)(゚)「国だって問題があることは理解していたから、作ろうとしたんやけどな」
彡(゚)(゚)「せやかて偏見が強い当時のことや。遅々として進まんかったやで」
相馬事件
明治年間に起こったお家騒動の一つ。精神病患者への処遇や、新興新聞によるセンセーショナルな報道の是非を巡り、世間へ大きな影響を与えた。
相馬事件がきっかけとなり、精神病者の監護(監禁および保護)の手続きについて問題意識が高まり、1900年に精神病者監護法が制定された。これは精神病者の人権保護や治療を目的とするものではなく、「精神病院」(精神病室)および私宅(神社仏閣における参籠所や公私立の精神病者収容施設なども「私宅」のカテゴリーに含まれる場合もあった)における監置を法によって規定するといった隔離を主眼にするものであった。
(wiki)
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